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【コラボ小説】ただよふ 1(「澪標」より)


4年前の春。
あなたと出会った日は、妻の具合が良くなくて、機嫌がすこぶる悪かった。
僕が志津と2人で食事に行く予定だったのを、「何で大学の男友達との食事が、3ツ星ホテルの最上階のバーなのよ!如何わしい!」と変に勘ぐられ、僕は妻をなだめてから家を出た。

体育会系な志津とお洒落なバーは確かに似つかわしくないと僕も思ったが、大学時代の思い出話だけでなく、新しい職場での仕事について話すには、落ち着いた場所の方が良いと考えたのだろうとぐらいにしか思わなかった。

志津と会う前に寄ったトイレで、身だしなみを整え、食事の邪魔にならない程度に香水をつけた。
サムライ アクアクルーズの香りは、沈んだ気持ちを上げてくれた。
流石に疲れた顔をして、同期の友人に会いたくはない。

左手の薬指に輝く結婚指輪が目についた。
妻に「如何わしい!」となじられたことが頭をよぎった。
病気なのだから仕方ないけど、妻からの度重なる否定の言葉は僕の心を確実に蝕んでいた。

今夜ぐらいは、学生時代の気分に戻ってもバチは当たらないだろう。
僕は指輪を外して、無くさないように財布の中にしまった。

「航!こっちこっち!」
窓際のカウンター席から、志津が手招きしながら、店のお洒落な雰囲気を切り裂くような野太い声で呼んだ。
「久しぶり、志津。」
僕は志津の隣の席についた。

志津は今でこそ肉付きの良い熊のような容姿だが、大学時代は大きな体格と頑健な筋肉に恵まれていて、小柄な僕は羨ましかった。
猪突猛進で周りの和を乱しがちだった僕を、フォローしてくれたのが志津だった。

「まあ、飲め飲め!食え食え!」
まるで居酒屋のようなノリで、カクテルを勧めてきた。

カクテルの味が口の中に広がる。
窓の景色が日暮れからすっかり夜景に変わるまで、大学時代の話で盛り上がった。

「──航と仕事する時代が来るなんて、あの頃は考えもしなかったな~。」
「僕は志津と仕事出来ると思うと、ワクワクするよ。」
僕は新しい仕事を大学の同期とやれることに、心を躍らせていた。

着信音が鳴り、志津がスマホを取り出した。
「おっ!やっと来たか!」
志津がニカッと笑った。
「え?誰が?」
誰かが来るなんて寝耳に水の話だ。

「仕事仲間で会わせたい人がいるんだな~。ハハハ~!」
ウイスキーを何本も開け、アルコールが回って出来上がっている志津は、説明が要領を得ない。
油断していた僕は、緊張で酔いが覚めてしまった。

「志津、ちょっと席を外す…。」
「おー、早く戻ってこいよ~。」
僕はトイレに飛び込み、緊張でかいてしまった汗をタオルハンカチで拭き取った。
それからアクアクルーズをつけ直した。
前につけてから時間が経っていないから、香りが少し強めになってしまったかもしれない。

意識を仕事に切り替えて、僕は志津の待つカウンター席に戻った。
「志津…分かっているとは思うけど、仕事の時は『海宝』って呼ん…」
「わーかってるって!」
かぶせ気味な返事が不安を倍増させた。

「来たぞ。」
入口に向かって、志津が手を振った。
僕は目を凝らして、これから仕事を共にする仲間の姿を捉えようとした。

仕事上がりと思われる、ジャケット姿の女性がこちらに気づき、軽く会釈した。
僕は挨拶をするために立ち上がった。
すると彼女は歩みを止め、こちらをじっと見つめてきた。
顔の上気した彼女の視線が、僕の熱を上げ鼓動を高めた。

わき上がってきた感情に僕は戸惑うしかなかった。
まるでこれは一目惚れではないか。
僕には妻がいるのに。
だけど僕は彼女から視線を外す気にはなれなかった。

「彼女が営業部主任の鈴木澪。春から君の片腕になってくれる。鈴木、彼は来週から営業部で大学入試担当の課長代理に就任する海宝航。俺の大学の同級生で弓道部仲間」
志津の野太い声が、お互いの立場を紹介した。

鈴木…澪さん。
僕はあなたの名前を心の中で反芻した。

「はじめまして、海宝です。今日は、ご足労いただきましてありがとうございました。今後よろしくお願いいたします。」
「こちらこそ、宜しくお願いいたします」
耳に心地よい声が、まるで天使だと思った。

はじめこそ緊張して会話が続かなかったけど、注文するお酒、好きな曲、香水が好きなこと、共通点が次々と見つかりあなたが楽しそうに反応を返すので、見惚れてしまっていた。

特に自分が身につけている好きな香りを褒められて、心の高揚は最大限に達した。
職場ではつけず、自宅で楽しんでいるというあなたの香りは、きっと僕も気に入るだろうと予感していた。

もっともっと、あなたを見ていたかった。
けれど魔法はいつかは解けるもの。

「今度は本社でお会いしましょう。」
志津の分厚い手を肩に置かれながら、僕とあなたは硬い握手を交わして解散した。

僕は財布にしまっていた指輪をはめて、妻や息子の待つ自宅に直帰した。

妻は既に眠りに就いていたが、息子の航平は受験勉強でまだ起きているようだった。

(あの感情は、新しい仕事への高揚感と店のお洒落な雰囲気がもたらしたものだ…きっと。)

僕は家族を裏切りたくなかった。
芽生えてしまったあなたへの想いは、心の奥にしまいこむことにした。


may_citrusさんの原作「澪標」も併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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