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【コラボ小説「ただよふ」番外編】陸《おか》で休む 13 (「澪標」シリーズより)


益子焼の工房で、澪さんの元夫に「澪さんの夫」だと啖呵を切った僕だったが、まだ正式に澪さんを籍に入れていなかった。澪さんの「還暦までは『鈴木澪』として看護師長の仕事を全うしたい」という意向からだ。キリの良いところまで全力で働きたいという気持ちは充分理解は出来る。僕は、モヤモヤとした気持ちを抱えながら、紫陽花の咲く季節を迎えた。

週末、澪さんが看護師長当直で自宅に帰らないので、東京の息子の航平の家に一泊した。前日は孫たちと遊んだが、今日は息子の妻の美生さんが孫たちを連れて外出している為、家には息子と2人きりになった。

「こないだは、誕生日プレゼント送ってくれてありがとう。さっそく花の苗を植えたよ」
プレゼントした植木鉢には、ペチュニアの花苗が植えられていた。しばらくすれば、鉢は花でいっぱいになるだろう。

僕は、脳梗塞の検査で経過が良かったことと、澪さんに内緒で仕事を探し始めたことを息子に話した。

「何で仕事を探していることを、澪さんに言わないの?」
息子は訝しんでいた。

「彼女に言ったら、絶対止めに入るだろうからね。だけど、僕は彼女がまだまだ若いのに、このまま老いている場合ではないんだ」
僕は、息子に僕の人生の展望を打ち明けた。30年前の僕が見た夢。それは今のままでは、澪さんに負担ばかりかけてしまうものだった。

「なるほどね。だけど、今の父さんは昔みたいに無理はきかないんだから、僕にも援助させてよ」

心配する息子に、「無理はしないから安心して。僕が倒れたら、澪さんの仕事を増やしてしまうだけだからね」と言いくるめた。

「父さん、結婚式はどうするの?」

「澪さんは『花嫁衣裳という年齢でもないし、会社時代の同期以外に親交のある人もいないから』と言っていてね……僕も志津ぐらいしか親しい人はいないから、式は挙げないつもりだよ」

「でも澪さんとの思い出を話してくれた時、父さんは言っていたじゃないか!竹内さんから澪さんの白無垢姿の画像を見せられた時、『本当は僕が隣にいたかった』って!!」

「……着物姿は、宮島に行った時の楽しみに取ってくよ」

息子にはそう言ったが、内心結婚式を挙げないのは寂しかった。前妻の実咲さんの式だって内輪だけで済ませてしまい、いちばん祝福してほしかった志津を呼ぶことが出来なかったのだ。

「ふーん…」
息子は顎に手を当てて、しばらく何か考えていた。

「あっ、志津さんといえば、父さんに会いたがっていたよ!」
息子は思い出したように、大きな声で言った。

「志津が?そういえば、倒れる前に弓を引きに行く約束をしてたんだ」

僕は小山に帰る前に志津に電話を掛け、すぐに志津の家まで会いに行った。

志津の奥さんに家の中へ通してもらうと、志津はリビングのソファーに、どっかり座っていた。

「……しばらく会わないうちに、また大きくなってない?」

大学時代、弓道部の同期だった志津は、出会った頃は身長は高かったけれど痩せていた。社会人になって、お酒を飲むことを覚えた頃から、肉付きの良い熊のように大きくなっていった。70歳現在、頭髪はほとんど無くなり、まるで布袋尊のように和やかな笑みをたたえるお爺さんになっていた。

「再会の開口一番、それか?俺は、お前が脳梗塞で倒れたって聞かされて、心配してたんだぞ!」
志津は心底心配そうに目を潤ませ、僕を見つめていた。

「すまなかった、志津。こないだ検査に行ったら、経過は良かったから心配しないで」

「そうか、じゃあ快気祝いで、これから飲むか!」
志津は重たそうな体で立ち上がり、お酒を持ってこようとした。

「何でそうなるんだ!志津だって糖尿病なんだから、酒を控えないと駄目だろう?」
僕は目を鋭くして志津を制した。

「ちぇっ。この年齢になると、話題は病気や葬式のことばかりなんだから、何か些細なことでも祝いたいんだよ」
志津は不満そうに口を尖らせた。

「おまえの息子から聞いたんだが、今小山にいるんだって?何か栃木に思い入れとかあったか?」

僕は溜息をついて、「まあ、いろいろあってね……」と言葉を濁した。

僕が海が好きなことを知っている志津は、海無し県の栃木に住んでいることを不思議に思ったようだった。しかし、澪さんと再会したことを言ったら、からかわれる一方なのが分かっているので、再会の報告は彼女の籍を入れてからにしようと思った。

「何だ何だあ?恋煩いみたいな溜息ついて!さては、入院中、栃木出身のナースに世話になって惚れでもしたかあ〜?」
志津はニヤニヤしながら、僕をからかった。

あながち的外れでもない志津の発言に、僕は「小山の話は、また今度説明するから」と力なく笑って誤魔化した。

僕は、志津の奥さんの実家で採れた青梅を土産に、小山のアパートに帰った。

閉めたはずの玄関の鍵が開いていたので、嫌な予感がした。玄関のドアを開けると、澪さんがうつ伏せで倒れていた。

僕の中で、実咲さんの自殺未遂がフラッシュバックした。澪さんがその頃の前妻と同じ年頃であるのも、僕を彼女を失うんじゃないかという恐怖に陥らせた。

「澪さん、澪さんっ!」
僕は澪さんの両肩を叩いた。澪さんは、「ん〜」と言いながら目を覚ました。

「あ……航さん、おかえりなさい。すいません、寝てました」
澪さんは寝ぼけながら、体を起こした。

「……『寝てました』って、ここ玄関ですよ?僕、心配したんですよ?」

「大丈夫ですよ。もう寒い季節じゃないので、風邪の心配はありません」

「そういうことじゃないでしょう?僕は、あなたが看護師の仕事に取り組んでいるのを誇りに思っているし、否定をするつもりもありません。だけど、自分を痛め付けるような働き方だけは、到底受け入れられません!!」

僕はつい、感情的に澪さんを怒鳴りつけてしまった。澪さんの目から涙が流れるのを見て、僕は怒鳴ってしまったことを後悔した。

「すいません。頭を冷やしてきます」

僕はアパートを出ると、早足で歩いていった。雨が降ってきて、僕は我に返った。辺りはすっかり暗くなっていて、田んぼの農道のど真ん中に僕は立っていた。僕を嘲笑うようなカエルの合唱が聞こえていた。

「ここは、どこ?」
スマホをうっかり玄関に置いてきてしまったので、位置情報すら掴めず、土地勘のない僕は真っ青になった。


航さんと澪さんと志津さんの関係は、may_citrusさん原作「澪標」1話を読むと、より理解しやすいです。


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