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【コラボ小説】ただよふ 21(「澪標」より)


僕と同じ日に出社していた志津に、あなたの異動の詳細を聞かされた。

「北関東事業所の水沢が退職して、向こうの人員が足らなくなったので、本社から1人北関東に寄越してほしいと頼まれてな。ちょうど鈴木が北関東じもとで働きたいと異動願いを提出していたので、そのまま異動してもらったんだ」

あなたと別れたあと、Zoomミーティングで何度か顔を見ていたが、僕は内心気まずくなってしまっていた。それは、あなたも同じだったに違いなかった。

「……最後、『海宝課長に宜しくお伝え下さい』って、寂しげに笑ってたよ。」

「そう……」

僕は仕事のパートナーとしてのあなたまで失ってしまった。

仕事に使っている馬橋のアパートに行くため、最寄り駅に向かっていると、急に雨が降ってきた。折りたたみ傘を出そうと鞄を探したが、入っていなかった。鞄の中の資料が濡れるのを避けるため、目の前の百貨店の入口まで走った。

雨雲の様子を見ようと空を見上げたら、ビルの合間を鳥の群れが飛んでいくのが見えた。

『課長は雨の匂いで何を思い出しますか?』
不意にあなたの声が頭を過ぎった。それは雨の日の横浜の公園の記憶だった。あの時、僕はムクドリの糞の匂いだと答えた。

『それなら、雨の匂いがしたら、今日私とここに来たことを思い出してください。私のまとっていた香りも一緒に。ムクドリよりはましでしょう?』

僕の足は自然と百貨店の中のロクシタンに向かっていた。百貨店は平日とはいえ、コロナ禍の影響で客がまばらだった。ロクシタンに辿り着くと、僕はそれを必死に探した。僕は黄緑色の香水瓶を手に取った。

「すいません、これ下さい!」
僕はフェイスシールドを着けた店員に声を掛けた。

「プレゼント用ですか?」

「……いえ、自分用です。」
僕は包装を断り、代わりにハンカチで大切に包んだ。

百貨店を出ると、雨は上がっていた。アパートに着くと、僕は手の消毒を済ませ、早速それを首元に付けた。瑞々しい緑の香りが僕を包み込んだ。

「……あなたの、香りだ」
ロクシタンのエルバヴェール。それは、あなた本来の香りだった。

匂いは、それと結びついている記憶を呼び覚ます。エルバヴェールは僕にとってあなたそのものだ。
どれだけ時間がたっていても、この香りがふっと漂うことで、何度でもあなたの記憶を呼び起こすことが出来るだろう。

そして、僕はエルバヴェールに願いを込めた。今はまだ、あなたと一緒になれなかったことが悔しいけれど、使い続けることであなたの幸せを心から祈れる自分になれるようにと。

僕はエルバヴェールを澪標みおつくしに、共に生きることに決めた。僕の人生の航海が終わるまで──


妻が入院している病院から、オンライン面会が出来るようになったと連絡がきた。今まで妻とは感染対策の為、面会禁止になっていて、話すら出来ない状況だった。

僕は早速オンライン面会の予約を入れた。しかし、病院から本人がそれを拒否したと連絡が入った。諦めずに何度も予約を入れ続けたら、「息子だけなら、面会してもいい」と妻が応じたと病院から連絡が入った。

「妻の信頼を得るのには、長い時間を要する。焦るな」と自分に言い聞かせた。

息子とは、年末からたくさんの話をした。僕の子どもの頃の話、学生時代何を考えていたか、妻との馴れ初め、家族と離れて働いていた頃の話、今の仕事にやり甲斐を感じていること、好きな音楽、好きな食べ物、他愛のないと思われること。

息子は興味深く僕の話に耳を傾けてくれた。そして、自分のことも話してくれるようになった。大阪から東京に引っ越してきた時は、友人と離れるのが辛かったとか、自分の感情もハッキリと伝えてくれるようになった。

僕たち家族はお互いを思うあまり、何も言えなくなってしまっていた。だけど、息子と話しているうちに、父と子としての関係が良くなっていく手応えを感じるようになった。

息子は、オンライン面会での妻の様子を僕に伝えてくれた。薬はあまり効いていないようだったが、僕のことも気にかけてくれているようだった。

息子が何回目かの面会を経て、妻に「父さんと話してみたら?」と提案してくれ、僕はオンライン面会をすることが許可された。入院してから、2か月以上経っていた。

画面の向こうの妻は、僕の姿を見るなり、泣き崩れてしまった。

「死にきれなくて、ごめんなさい」
妻は死にきれなかった自分を責めていた。

「実咲さん、僕はあなたが生きていてくれて良かったと思う。今は信じてもらえないだろうけど、僕は時間が掛かっても、あなたと家族としてやり直したい」

僕の言葉は妻の心に響いているようには見えなかった。だけど、妻の心に僕の言葉が届くまで、語りかけ続けることにした。


入院してから3か月、妻は退院することになった。久しぶりの外の空気に妻は怯えていた。コロナ禍は未だに収束の気配がなかった。

妻は目を離すと、何度も自殺を図り、入退院を繰り返した。その間に息子は進級し、受験生になった。僕は生活拠点を新松戸の自宅に戻し、妻のケアをしながら仕事をした。息子には勉強に集中してもらう為、僕が仕事で使っていた馬橋のアパートを、息子の勉強スペースとして使ってもらうことにした。


2021年7月。規模を縮小して、1年遅れで東京オリンピックが開催された。その頃、何度目かの入院で、ようやく妻に合う薬が見つかり、病状が落ち着いた。

退院の日、主治医から今後の治療方針について話があると言われ、僕は1人で病院に向かっていた。僕が上野駅のホームで京浜東北線を待っていると、後ろから「海宝課長ですよね」と女性に話し掛けられた。

「……水沢さん?」
あなたの親友、水沢彩子さんが立っていた。元々僕と同じ位の身長の彼女は、ヒールを履いていたので、僕より身長が高くなっていた。笑顔なのに威圧されているように感じた。

「お久しぶりです。私、今は結婚して吉井姓になったんです」
結婚という言葉に、鈍く心に痛みが走った。

「結婚おめでとうございます。今日は、お買い物ですか?」

「ええ。これから秋葉原で仕事で使う機器を探しに。課長も、お買い物ですか?」

「いえ、大事な待ち合わせがありまして……」
彩子さんは僕の一挙手一投足に注目していた。

山手線と京浜東北線が遅れているらしく、発車時刻になっても電車が来なかった。

「すーちゃん…鈴木さんのこと聞かないんですか?」
彩子さんが切り出した。威圧されているのは、気のせいではなかった。

「あなたは、どこまで知っているんです」
僕は彩子さんを睨んだ。あなたが妻のことを話すとは信じられなかったが、確認しないわけにはいかなかった。

「2人が付き合っていて、課長が家族を選んで、別れたことですが……」
睨まれた彩子さんは、戸惑いを隠せなかった。僕は彩子さんに対する警戒を解いた。

「……そうですか。このことはどうか他言無用でお願いします。彼女は…鈴木さんは、どうしてますか?」

「あなたと別れてとても傷ついていますが、幸せになるため、頑張っていますよ。あの子は、きっと幸せを見つけると私は信じてます!」
そう言い切った彩子さんの目を見て、僕はこの人がいればあなたは大丈夫だと思った。

遅れていた山手線がホームに入ってきた。風圧で香りが煽られたのだろう。彩子さんが、「その香り、ロクシタンのエルバヴェールですよね」と尋ねてきた。

「僕の澪標です。死ぬまで使い続けます」
僕が言った直後に京浜東北線が入ってきた。

「すいません、急いでいますので!」
僕は電車に乗り込んだ。

扉が閉まり、もう一度彩子さんの方を見た。背のとても高い、モデル並みに顔の整った男性と楽しげに話していた。おそらくあの人が旦那さんなのだろう。

「お似合いですよ。どうかお幸せに。」
僕は2人の仲が、末永く続くよう祈った。


今回はmay_citrusさんの原作「澪標」エピローグあたりのお話です。


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