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【コラボ小説】ただよふ 24 最終回(「澪標」より)


妻の強迫性障害の治療は、苦難の連続だった。治ったと思っても、再発するの繰り返しで、妻も僕も何度も心が折れそうになった。

治療期間中、息子が大学に現役合格したことが、妻の治療の意欲を上げてくれた。

強迫性障害の仲間も出来て、情報を交換したり、悩みを共有することで、病を家族だけで抱えなくて良くなった。

時間はかかったけれど、担当医から寛解と診断された時は、家族だけでなく、強迫の治療で知り合った仲間も喜んでくれた。このことを僕が1番伝えたかったのは、あなただったけれど……

僕はオンラインでの仕事から社内ワークへ復帰した。復帰した直後に聞いたのが、北関東事業所に移ったあなたの寿退社だった。

仕事を終え、沈んだ気持ちで帰宅しようとしたら、あなたの同期で親友の竹内くんに呼び止められた。

「海宝課長、今日飲みに行きませんか?」
竹内くんに飲みに誘われたのは、初めてだった。あなたとのことで、話があるのだろうと思った。

僕は、家族に「飲みに誘われたので遅くなる」とLINEを入れ、彼の誘いを受けた。

竹内くんが選んだ店は、あなたと出会った、あの3ツ星ホテルの最上階のバーだった。

「ずっと課長と飲みに行きたかったんですよ~。あっ、普段は賑やかな居酒屋で志津課長と飲んでるんですけど、海宝課長、こういうオシャレなバー似合うと思って!」

ざっくばらんな話し方の竹内くんだったが、出されたカクテルの飲み方が思いの外綺麗で、実は育ちが良いのではないかと思った。

「……竹内くん、そろそろ本題を切り出しませんか?」

僕が促すと、竹内くんはスマホの画像を僕に見せてきた。それは、白無垢を着て新郎と並ぶあなたの姿だった。

「わざわざこれを見せるということは……あなたも鈴木さんと僕の関係に気付いていたんですね……」

「鈴木さんが言ったんじゃないですよ。課長が鈴木さんの当時住んでいた綾瀬のアパートに入っていくのを、俺見ちゃったんです。知っているのは、俺と水沢…今は吉井彩子さんだけです」

「そうでしたか。」
あなたから親友たちに話したわけではなかったと分かり、ほっとしたと同時に自分の不注意を恥じた。

「課長と鈴木さん、お似合いなのに何で課長は結婚しているんだと憤ってました。鈴木さんと別れたと聞かされた時は、課長を殴ってやりたいとさえ思っていました」

「良いですよ、殴っても。家族には、その辺で転んだとでも説明しますから……」
僕は目を瞑った。殴られる痛みも、彼女が受けた心の痛みに比べれば微々たるものだと思った。

「目を開けてください、海宝課長!本当に殴ったら、鈴木さんに恨まれます!!」

僕は目を開けた。竹内くんのスマホが目に入った。

「もう一度、画像を見せてもらってもいいですか?」

僕は改めてあなたの白無垢姿を見た。本当は、僕が隣に立ちたかった。しかし、それはもう叶わない夢である。

画像の中のあなたは、張り付いたような笑みを浮かべていた。僕は一抹の不安を覚えたが、これから旦那さんと絆を深めていくのだと、思い直そうとした。

「……竹内くん、もしも彼女が幸せの航路から外れてしまった時は、手を差し伸べてあげてください」
僕は竹内くんに思いを託した。

「何ですか。当たり前じゃないですか。鈴木さんは、親友なんですから!」
彩子さんといい、竹内くんといい、あなたの親友は頼もしいと思った。

「昔…志津課長と鈴木さんで、話したことがあるんです。『考えが似過ぎている相手と恋人同士になった時、はじめは運命の相手だと思うけれど、わかり過ぎてしんどくなる』んじゃないかって。『付き合って別れたら、永遠に失ってしまう可能性がある』って。まさかその後、課長たちがそんな関係になるとは思いませんでしたが……」

「竹内くん、僕は一生を懸けて、彼女に愛されたことが間違いでなかったと証明していきます」

海宝家の事情を知らない竹内くんは、呆気に取られていたが、「何で別れてしまったんですかね~。まあ、飲みましょう」と明るく笑った。



30年近くの時が流れた。

あれからもいろんなことがあった。妻の双極性障害も寛解と再発を繰り返した。だけど、海宝家を取り巻く環境はゆっくりと優しいものへと変化していった。

家族や他人を優先するあまり、自分を後回しにしてしまいがちな息子の航平が結婚したことが、何より嬉しかった。

息子の妻である美生みきさんは妻の病に理解を示し、まめに僕たち夫婦の家を訪れてくれた。妻もはじめは戸惑っていたものの、彼女とすぐに仲良くなった。海宝家には横須賀に住む母以外、男しかいなかったから、女性同士の会話が出来ることを、とても喜んでいた。孫2人にも恵まれ、幸せな日々が続いた。

しかし、この世は諸行無常である。妻は80歳の時に脳梗塞で倒れ、リハビリと療養の日々が続いた。僕は仕事を辞め、妻のケアに全力を注いだ。それでも妻はだんだん弱っていき、84歳、とうとうその日は来てしまった。

「最期は自宅で迎えたい」と、妻本人の希望だったので、在宅の担当医立ち会いのもと、住み慣れた家で妻を看取った。

僕は亡くなるまで妻の手を握り締めていた。妻は声にならない声で「ありがとう」と言ってくれた。そして、眠るように天国へと旅立っていった。

若い時は嫌だった15歳の歳の差だったが、そのお陰で妻を最期まで自分の手でケアすることが出来た。

家族葬で妻を見送ったあと、独り残された僕はとても疲れてしまっていた。自分の為だけには、何もする気が起こらなくなっていた。そんな僕を心配した息子が「僕たち家族と一緒に暮らそう」と言ってくれた。僕は息子の申し出に甘えることにした。

妻が旅立ってから数ヶ月が経った。僕は、予てから決めていたことを息子に話すことにした。それが、僕に残された最後のやるべきことだった。

「航平、大事な話があるんだ。とてもとても大事な」
僕に割り当てられた部屋に、息子を呼び出した。

「大事な話って何?」

「2020年の頃に起きたこと、覚えているかい?」僕が尋ねると、息子の表情が曇った。

「…覚えているよ。新型コロナウイルスが蔓延して、多くの感染者や死者が出たよね。母さんは、ウイルスの感染に怯えて、元々の病と併発して強迫性障害になった。その後……」
息子は言葉を詰まらせた。昔のこととはいえ、母親が自殺を図った事実は、深い傷となって息子の心に刻まれているのだ。

「実は、その頃…父さんにはお付き合いしていた女性がいたんだ」
僕の爆弾発言に、息子の顔がみるみると怒りに歪んでいった。

「何、それ。火遊びをしていた母さんをあんなに責めておいて、自分も不倫をしていたってこと?」
息子のどことなく妻に似た瞳が、僕を責め立てた。

僕は静かに頷くと、「僕を許せないのは、尤もだけど、最後まで聞いてほしい。海宝家がここまで再建出来たのは、彼女のお陰なんだから」と息子を説得した。

息子ははじめ憤激していたが、僕があなたとの出会いから別離までを話すと、息子は眉間にしわを寄せてしばらく考え込んでいた。

「──つまり、父さんは火遊びなんかではなく、真剣に【鈴木澪】さんとお付き合いしていたんだね」

「そう。本当は君たち家族を置いてまで、残りの人生を彼女と生きたかったんだ。でもね、もしもコロナ禍がなかったとしても、彼女から別れを切り出されたと思うんだ。お付き合いしている時も、僕が家族を捨てようとしていた時でさえ、彼女は母さんや航平を気にかけてくれていたのだから。」

僕が大切に思っていたはずの家族への思いを見失っても、澪標のようにあなたが肯定し続けてくれたから、海宝家は崩壊しないで済んだのだ。

「……じゃあ、僕にとっても彼女は恩人だね」
息子はあなたを認めてくれた。

「裏切るようなことをしてすまなかった。彼女を認めてくれてありがとう」
僕は息子に深く頭を下げた。

それから、息子は僕にあなたとのことを度々聞いてくるようになった。それは、まるで絵本の続きをせがむ幼い子どものようだった。

僕はあなたが淹れてくれた黒豆茶や、当時読んでいた本の感想を伝え合っていたこと、ささやかだけど幸福だった日々を息子に語り続けた。

ある日、息子が僕に尋ねた。
「父さんは、鈴木さんに会いたくないの?」

僕は口角を上げ、
「彼女の幸せを邪魔する訳にはいかないからね」と息子に強がりを言った。

本当は死ぬ程会いたい。会ってあなたと別れた後の…あなたのお陰で再建した海宝家のことを伝えたい。感謝を伝えて、強く抱き締めたい。だけど、それは家庭を持ったあなたを困らせてしまうだけだから……

その日の夕方、僕は手に痺れを感じた。僕ももう70だ。老化現象だろうと軽く見て、息子家族には黙っていた。

夜10時を回ったので、僕は自分の部屋に入った。引き出しから、ハンカチに包んだ古い香水瓶を取り出した。それは、僕があなたに贈った「サムライ アクアクルーズ」のオードトワレだった。

あなたは僕と別れた後、新潟の僕の祖父母の空き家の庭にこれを埋めていった。空き家が古くなり、取り壊しが決まった後、壊す前に空き家を見に行った時に見つけた。あの辺りは野良猫が多かったから、掘り返されたのだろう。僕は空の瓶をハンカチで包んで持ち帰ってきた。

僕はあなたの幸せになる決意と、心は僕と共にありたいと願う思いを感じ取って、すっかり古びてしまった瓶を後生大事に保管していた。昔は切り裂かれるようだった感情も、今は香水のラストノートのように優しく変化していた。

僕はアクアクルーズを再び引き出しに仕舞うと、ベッドに向かって歩こうとした。その時だった。頭に激しい痛みが走った。僕は堪らず、倒れ込んでしまった。

倒れた衝撃音に、すぐに息子が駆けつけてきた。

「美生さん、父さんが倒れた!救急車を呼んで!今すぐ!!」

側にいる息子は、30年前に妻が倒れた時とは違い、的確で頼もしかった。もう、僕がいなくなっても安心だ。

最期おわりを感じた僕は、枕元に置いていたエルバヴェールの香水瓶に手を伸ばした。死ぬまで使い続けると約束したから。

「父さん、これ」
身動きが取れなくなった僕の代わりに、息子がエルバヴェールを握らせてくれた。

約束を果たせたと安心した僕はそのまま、意識を失った──


僕は冷たい海の底に沈んでいた。いつか見た、夢のようだった。身体は泡になり、海を漂うだろう。僕は充分に生きた。このまま海に還ろう。僕はそっと目を閉じた。

気づくと、僕は洞窟の中にいた。泡となって消えそうになった僕を、人魚が助けてくれたようだった。

人魚は、僕が握り締めていたエルバヴェールを手から剥がすと、自ら香水をつけた。すると、人魚は羽根の生えた天使へと姿を変えた。

「あなた、来て」
天使は僕に手を差し伸べた。

すると、洞窟の中をあなたに似た声がこだまするのが聞こえてきた。

僕が還りたいのは、冷たい海の底なんかじゃない。僕が還りたいのは、あなたの元だ。そう思い、僕はあなたに似た天使の手を取った。強い光が僕を包み込み、目が眩んだ──


「──海宝課長!」
僕を呼んでいた声が、僕のすぐ近くで聞こえた。

「…ここは、天国?澪さんそっくりの…天使の声が聞こえる。」
天国は青空が広がっているのだと思っていたけれど。

「課長!ここは病室です。助かったんですっ!」

僕は声の主を見て、すぐに気づいた。ここは病院で、ここにいるのは歳を重ねたあなた本人なのだと。息子があなたを連れてきてくれたに違いなかった。

僕はあなたの元へ、本当に還ってきたのだった。


【完】


その後の病室の様子です。


may_citrusさん原作「澪標」を1話から読みたい方はこちらへ。



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