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55年続いたおもちゃ屋を閉店するまで3.社長として「閉店」をやり遂げる

この連載では、私の父が昭和27年に創業し、私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」の歩みをお話しています。
さくらトイスは、私が社長になってから約10年後に、全店を閉店しました。平成19(2007)年のことです。

今回は、閉店を決めた経緯や、閉店までの日々のことをお話しします。


平成18年、ヒット商品がなく、資金繰りが厳しくなる

平成17(2005)年は「ホームスター」というヒット商品は出ましたが、テレビ通販に商品を持っていかれてしまいました。私たちのような専門店は、売りたくても商品が入荷せず、売上げは作れません。 
ヒット商品のない時は、レゴやアンパンマン商品などの定番商品を厚くします。しかし、定番商品は価格競争が激しく、定価販売している当社では売上が伸びません。 

平成18(2006)年になっても爆発的なヒット商品がなく、資金繰りも苦しくなってきました。 

資金繰りは、創業者であり当時は会長になっていた父に教えられたように、1年間の資金繰り表を作り毎月修正をしていきます。 
当社は、デベロッパーに渡す保証金だけを長期借金として銀行に借り、出店資金は短期で借りて、3年以内には返済していました。 
父いわく、「保証金はいずれ店を閉めた時には返ってくるので、その時返せばよい、出店資金は3年で返せる見込みのある店舗しか出店しない」という方針でした。 

私が社長になってからは、父の思惑とは違い、何店舗かを閉めて保証金が戻ってきても銀行に返すのではなく、資金繰りに使われてしまいました。そのため借金は減らずに利子だけ払っていました。 
ちなみに、私が社長になってから、借り入れ銀行は二行から一行に減らしていました。
その一行は、地元の信用金庫です。 父が昔からお世話になり、持ちつ持たれつで互いに大きくなっていったと、私は思っています。 

そんな状況で資金繰りも苦しくなり、この先の見通しもつかなくなったので、2006年の夏商戦が終わった頃に父に相談しました。 
「今年のクリスマス商戦の数字が悪かったら会社を閉めたいと思いますが、会長はどう思いますか?」と聞いたら
「俺もそう思う」と一言。 二人の思いが一致しました。
あとは売り上げを上げる為の最大の準備をして、これから運営していくだけのぎりぎり最低売上目標の数字を立てました。しかし結果は届きませんでした。 

閉店までの道筋①丸井におもちゃ売り場を残す

クリスマスが終わり、改めて父と相談して、「閉めるなら早く閉めよう」と意見が一致しました。そこで、半期決算となる翌年3月に閉める事にしました。 
閉めるにあたりどうやって行くか段取りを話し合いました。そこで立てた方針は、 当時残っていた5店舗はすべて丸井のテナントでしたので、それらの店を、できれば問屋さんに引き継いでもらう、というものです。問屋は当社よりも粗利が取れるので、小売店を営業できるでしょう。そうすれば、丸井にはおもちゃ売り場がそのまま残り、オーナーの丸井さんにも迷惑をかけないで済む。また、売り場ごと引き継いでもらえば、社員たちもそのまま働き続けられるのではないかと考えたのです。

開店当時の国分寺丸井店(トイジャーナル1989年4月号より)

2007年の年明け早々に店長会を開き、店長たちに閉店することを伝えました。そこでは「まだ他言無用」と口止めしました。 

次に、丸井本社に伺って、「会社を閉めたいが、丸井のおもちゃ売場を残すために、後をおもちゃ問屋に託したい。どこが良いでしょうか」お伺いをたてました。 丸井は「それではカワダさんにお願いします」と言ってきました。 
当時のカワダの会長と父は昔から懇意だったので、「会長にお願いしよう」と話していた矢先、その会長が突然お亡くなりになりました。 

閉店までの道筋②カワダに売り場と社員を託す

カワダもバタバタしているところで大変とは思いましたが、専門店担当の部長に話をしました。

丸井のおもちゃ売り場を引き継いでほしい、ついては、各店の社員たちも、引き続き働けるようにしてほしい。これが私たちの希望でした。

会社に持ち帰って検討いただいた結果、「承知しました」との返事をいただきました。当時カワダも直営店を出していたのですが、もともとが問屋さんですので、小売りのノウハウがあまりありませんでした。さくらトイスの売り場を、小売りのプロである社員たちと一緒に引き継げることは、先方にとっても悪くない条件だったようです。社員はもちろん準社員・アルバイトまで引き継いで雇うと約束してくださいました。 

さくらトイスの店舗社員は二人を除いて全員、同じ店で勤務を続けました。行かなかったうち一人は一番古参の社員で「僕はさくらトイスだけで勤めはやめます。」と言って実家の仕事をはじめました。私は社長になってからこの方に沢山助けて頂きました。 もう一人はおもちゃ業界をやめて、他の業界に行きました。 

サンシャイン「こどもの町」にあった店舗(1979年オープン)

会社を閉めるにあたって、社員たちの就職先と、オーナーの丸井さんへ迷惑を掛けたくないというのが大きな心配事でしたので、両方が同時に解決して、まずは一安心でした。

閉店までの道筋③借金の返済、問屋への支払い

 2月に入り、「3月末で閉める」と、信金と取引先の問屋に話しました。
信金には借金があります。私は蓄えがないので借金をどうしようかと父に相談したら、「俺が作った借金だから俺が自宅を売って返す」と言ってくれました。 
信金に「会長宅を売って借金返済をしたい」と相談したら、地元の不動産屋を紹介してくれました。 

問屋にはファックスを送り、取引額の多い順から電話で説明しました。 
「3月末までは営業をしますので、最終支払いは5月10日にさせていただきます。」と伝えました。 
父と「先にお金を回収しに来るところがあるかな」と話していましたが、どこも何とも言ってきませんでした。 
さくらトイスは創業以来、決して支払日に遅れたことはなく55年間やってきたので、取引先に信用、信頼されていたことが証明され、改めて父の凄さを認識しました。 

原宿にあった創業当時のさくらトイス(1958年)

ついに閉店へ

店舗の方は先行発注商品のみ仕入れをして、在庫商品は値引き販売を始めました。 
社員には、さくらトイスは閉めるが、カワダが店を引き継いでくれるので、皆はそのまま同じ店で勤められることを話しました。 
 
丸井の各店を回って、丸井の店長に会社を閉める挨拶をしました。中にはさくらトイスを惜しんで下さる店長もいたり、「閉める段取りをきちんとしてくれて感謝します」と言って下さる店長もいました。 
丸井のテナントの中には、突然会社が潰れて社長がいなくなり、朝から債権者が丸井店舗に商品を引き上げに来ると言う事もあったそうです。 
 
うちの会計士さんにも、会社を閉める判断をすぱっとする所は珍しいと言われました。 
私は、無理して続けて破産するくらいなら、まだ余裕があるうちに会社をたたんだ方が得策と思うのですが、最後まで頑張ってしまう人が多いようです。 
 
計画通りに3月31日まででお店の営業が終了となりました。店は4月1日に、「さくらトイス」の看板から「KAWADA」の看板に代わりましたが、商品もスタッフも変わりませんので、お客様は気が付いていない方が多かったかもしれません。 
本部は事務処理があったので、6月末まで通いました。 

私としては店を引き継いでくれたカワダさんに感謝し、丸井やハピネット等のすべての取引先にも、今までさくらトイスで働いてくれた社員たちにもそれ程迷惑をかけずに閉められ、ホッと一安心しました。 
実家も借金とトントン位の価格で売れ、信金の借金も無事に返済できました。 

「閉店」をやり遂げた充実感

ここまでお話してきて、55年間続いたお店を閉めたにしては、寂しさや感傷的な気分があまりないなと感じた方も多いかもしれません。確かに、私も父も、さっぱりした気分でした。
 
創業者の父としては、これまで時代の流れに乗って店を作って大きくし、存分にやりたいことをしてきたという気持ちがあったのだと思います。
 
2代目社長の私としては、引き継いだ時から、おもちゃ業界の変容により、これまでと同じやり方では通用しない。だからと言って、今の会社のままで、新しい仕組みを作り直すのは難しいと感じていました。会社を整えながらも、いつか手放すかもしれないと考えていたのは、前回も書いた通りです。
何よりも、閉店に至るまでの準備や調整は、私の社長としての最大の大仕事でした。それを計画通りにしっかりやり遂げたことへの充実感が大きかったのだと思います。

そして、会社を閉めた次の年2008年9月、アメリカでリーマンショックが起きました。日本でも株価が大暴落して、どこの会社も大変でした。 
もし、会社を閉める判断が1年遅かったらと考えると、ゾッとします。 

母がいつも言っていました。 
「人生流れに逆らってはダメ、流れに沿って行きなさい」と! 

私の実家はおもちゃ屋。それが誇りです!

昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の歩みをお話してきました。
これまでお読みいただき、ありがとうございました。

「さくらトイス」の歴史はここまでですが、今後もおもちゃとおもちゃメーカーの歴史、最新のおもちゃのことなどを連載していきますので、これからもよろしくお願いいたします。

編集協力:小窓舎

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