300年の歴史を誇るおもちゃメーカー、増田屋コーポレーションには「元祖」がたくさん(後編)
おもちゃ、おもちゃ屋やメーカーの歩みを調べている私にとって、どうしてもお話を伺いたかったのが、「パネルワールド」や「モーラー」で知られるおもちゃメーカー、「増田屋コーポレーション」さんです。
創立は、江戸時代の1724年、今年で創業300年という長い歴史をお持ちです。
増田屋さんの歴史は、日本のおもちゃ屋・問屋・メーカーの歴史そのもの。
会社の歴史や、その時代ごとのおもちゃについて、玩具事業部 マーケティング部 開発室チーフの木島誠一さんにお話をうかがうことができました。そのお話を私なりにまとめて、二回に分けてご紹介します。
後編の今回は、江戸時代から戦後、そして現在に至る増田屋の歩みについてです。
創業は江戸時代、創業者は春日局の孫
増田屋が創業した享保9(1724)年は、江戸時代、八代将軍・吉宗の時代でした。
創業者の齋藤林兵衛は武家の生まれで、三代将軍の乳母として知られる春日局の末裔にあたる人と言われています。跡継ぎ息子ではなかったので、商売を始めたようです。当時から屋号は「増田屋」ですが、田んぼを増やすと縁起が良いとのことで、屋号にしたと言われています。
場所は浅草の奥山(浅草寺の西側)で、茶屋や見世物小屋などが並んだ、当時の庶民の娯楽の場でした。その頃は江戸の人口が増え、庶民の娯楽も増え始めた時代です。
増田屋はそこで、土人形や紙・竹・布などでできたおもちゃを売る、いわばお土産屋のようなお店だったそうです。なお、少し前の1711年には、現在も続く人形メーカー、吉徳が操業しています。
明治時代、製造業、問屋業をスタート
当初は小売店だった増田屋ですが、明治になると、問屋業も始まります。つまり、この頃には、おもちゃの卸し先が増えてきたということなのですね。
また商品企画をして、大正時代には自社工場を持ち商品を製造することも始めました。
こうした業態は「玩具製造問屋=製問(せいとん)」と呼ばれていますが、増田屋はその先駆けであり、現在も続く貴重な企業と言えます。また、後に東京玩具製造問屋組合も組織されました。
この頃には、奥山から雷門の近くへ、事業拡大にて移転していたそうです。
関東大震災をきっかけに、蔵前のおもちゃ問屋街が誕生
1923年、関東大震災のため浅草が焼け野原になり、会社も消失。増田屋は蔵前の現在地に移転しました。
当時の蔵前について興味深いお話を、木島さんから伺いました。
もともと蔵前は、その名の通り蔵の街。年貢米を納める、幕府の米蔵が並んでいました。そんな蔵も、明治の頃には少なくなっていたそうです。
そして関東大震災後、復興のために、蔵前の空き地には、電柱の材料となる木材がたくさん置かれていたそうです。急ピッチで電柱が建てられ木材が無くなり、その一帯は空き地になりました。
そこへ移っていったのが、増田屋や他のおもちゃメーカー、問屋などです。
当時も大手だった増田屋が移転したことで、周辺におもちゃメーカー、問屋が集まってきて、蔵前はおもちゃ問屋街となります。
私の父が戦後に原宿でおもちゃ屋をはじめたとき、仕入れのために自転車で蔵前まで通っていたという話をよく聞きました。
おもちゃの街、蔵前のルーツは、関東大震災後、増田屋の移転だったのですね。
この場所には現在も、マスダヤビルがあります。
なお、今でも蔵前周辺には、バンダイ、エポック社など、日本を代表するおもちゃメーカーが数多くあります。
世界一の鉄道模型コレクターの原点も、増田屋のおもちゃ
この時代にまつわるエピソードとして、もう一つ、木島さんから伺ったことがあります。
横浜に、原鉄道模型博物館という施設があります。
これは、大正8(1919)年生まれで、幼少時から生涯にわたって、鉄道と鉄道模型に情熱を傾けた故・原信太郎さんの貴重な作品とコレクションが展示されている博物館です。
木島さんが博物館を訪れた際、入場すぐの場所にあるものが展示されていて驚きました。
それは、増田屋製のブリキの電車だったのです。
原信太郎氏は4歳で関東大震災に見舞われましたが、その際に大事に抱えて逃げたのが、増田屋の電車おもちゃだったのだそうです。
これが鉄道模型趣味への原点になり、すばらしい模型製作とコレクションを成し遂げたきっかけだと思うと、夢を育むおもちゃの力を改めて感じられたそうです。
戦後の復興を支えたブリキのおもちゃを製造
太平洋戦争の苦難の時代を経て、戦後、おもちゃは輸出の花形商品となり、戦後の復興を大きく進めました。なぜなら、戦勝国アメリカが、日本へ食料を輸出する見返りとして選んだのが、生糸とおもちゃだったのです。
戦前から輸出を伸ばし、一時は世界一の輸出額となっていた日本のおもちゃは、戦後にもアメリカをはじめとする各国で人気となりました。
なお、この時代のおもちゃに関するお話は、以前の記事にも書いていますので、よろしければご覧ください。
増田屋でも、多くのブリキのおもちゃを製造、輸出しました。
中でも機関車のおもちゃ「ウェスタンスペシャル」は海外で大いに売れ、輸出実績第一位の商品になったこともあったそうです。
こうしたブリキのおもちゃはコレクターズアイテムとなり、今でも多くのファンがいますね。
この時代の輸出向けおもちゃには、「増田屋」の名前はどこにもなく「TRADE MARK MODERN TOYS」と書かれています。そのため、海外のコレクターには「TM」と書かれたマークと、メーカー名も「モダントーイ」として知られています。
こうしたおもちゃ産業が戦後復興を支え、日本のものづくり産業を発展させ、その後、世界一となる自動車産業につながっていくのですね。
もちろん、増田屋もそんなおもちゃメーカーの一社だったのです。
当時のブリキのおもちゃは、小さな町工場や職人さんたちの分業で作られていました。
例えば、型を作る工場、プレスをする工場、プリントをする工場などで、それぞれに優れた技術をもった職人さんたちがいたそうです。
ところが現在は、職人さんたちが高齢化、後を継ぐ人もいなくなってしまいました。分業で作業工程を行うブリキ玩具は、どこかの工程を担当する職人さんが廃業されることで、連携作業が不可能となり、製作が出来なくなってしまったそうです。何だか残念なお話ですね。
おもちゃの街の歴史を今に伝えるロボット「マイティー8」
現在、マスダヤビルの裏には、ホテル東横イン蔵前Ⅱがありますが、その壁面には、ロボットの姿があります。
このロボットは、増田屋が1964年に発売した「マイティー8」です。
実は、ここもマスダヤビルホテル棟なのです。2018年までは昭和の増田屋本社ビルでした。かつてはこの場所から多くのおもちゃが輸出され、世界中の子どもたちの夢を育んでいたのです。東横インさんがそのことを配慮され、おもちゃの街・蔵前の記憶をとどめ、新しい名所となるように、設置されたのだそうです。
もし蔵前を訪れる方がいましたら、注目してみてくださいね。
最後に
増田屋さんの300年の歴史はとても興味深く、長い記事になってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございます。
最後になりましたが、貴重なお話をお聞かせくださった木島誠一さんに感謝申し上げます。
木島さんは1977年の入社以来、おもちゃの開発ひとすじ。商品のアイデア探しのため、資料室にある過去の商品に身近に触れるとともに、商品部の先輩方から様々なエピソードを聞いて、今では社内の誰よりも詳しいのだとか。ここには載せきれないくらい、たくさんのお話を伺うことができました。
私も資料室を見せていただきましたが、貴重なおもちゃばかりで、いつまでも見ていたくなってしまいました。
そんな資料室の成り立ちについても、興味深いお話がありました。
そもそもは先々代の社長が、「商品は最低2個取っておく」という決まりを作られたのだそうです。
1つは永久保存版にし、もう1つは「いつか復刻するとき、パーツの型どりなどに使えるように」という考えだったそうですが、とても先見の明があると思いました。なぜなら、おもちゃは子どもが遊ぶうちに破損し、捨てられてしまうことが多くて、資料として残りづらいからです。
資料室にはおもちゃのほか、業界紙やパンフレット、また海外の絵本なども数多くありました。おもちゃが主に輸出用だった時代、おもちゃやパッケージのデザインの参考として、いろいろな洋書を集めていたそうです。どれも貴重な資料です。
現在、資料室は非公開ですが、いつか、日本のおもちゃの歴史を知る手掛かりとして、公開して頂けるとうれしいですね。
もし「前編」をまだ読んでいない方は、こちらからどうぞ。
世界初のラジコンなど、「元祖」のおもちゃのお話です。
昭和27(1952)年から55年間続いたおもちゃ屋「さくらトイス」の思い出話を毎月更新しています。こちらもぜひご覧くださいね。
編集協力:小窓舎
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