平成6年、町屋の赤札堂ではベイブレードなどのイベントも開催
この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。
前回の記事では、丸井国分寺店(昭和63/1988年)、丸井大井町店(平成2/1990年)、丸井草加店(平成5/1993年)と丸井3店舗のオープンがありましたが、その間の平成元年(1989年)に、私はさくらトイスの副社長になりました。
今回は、お店の歴史に加えて、私が本格的におもちゃ屋にかかわるようになって感じたことも書いてみます。
おもちゃ屋では、マスコミ宣伝・キャラクター商品が強い
大学卒業後からそれまでは、ファンシーショップを経営してきましたが、初めておもちゃ屋の経営に関わり、似て非なるものと痛感しました。
ファンシーショップの経営にはある程度の自信を持っていたので、同じ感覚で行けば良いと思っていたのが大違いでした。
まずファンシーショップの品揃えは、自分の感覚とお客様の感覚をすり合わせて商品選びができましたが、おもちゃの場合は完全にメーカー主導型で、それもマスメディアに乗った商品を揃えて行かなければ大きな売り上げが作れません。
一番びっくりしたのが、キャラクターの強さです。
今までファンシーショップで、女の子向けの色々な鍵付き日記帳が980円で良く売れていました。おもちゃ店に来たら、同じような仕様で女児キャラクター付が2980円で発売されています。
「これは売れないな」と思っていたのですが、クリスマスに飛ぶように売れて品切れを起こしました。キャラクターの強さとテレビ宣伝の偉大さにビックリしました。
そして初めてメーカーの新製品発表会に行ったら、確か劇場みたいなところで、舞台の上に当時の社長が出てきてキャラクター玩具の強さを強調し、「キャラクター玩具を仕入れれば売り上げが伸びる」と力説していました。ちょっとオーバーな表現かもしれませんが、どこかの新興宗教に洗脳されている気分でいい気持ちはしませんでした。ですが、言葉通りキャラクター玩具は良く売れました。
しかし、人気のキャラクター商品は、店の要望数は入らず、品切れを起こしてしまいます。
特にキャラクター商品は販売数がメーカーも小売店も読めません。
当たればすぐ品切れを起こし、追加生産まで間が空けば売れ残ります。数出しが非常に難しく、賭けのようなところがあります。
ファミコンソフトはもっと難しく、売れるか売れないかでした。
売れないものは即座にデッドストックです。
私が社長になった時には、「マリオとドラクエとファイナルファンタジー以外は仕入れなくてもいい」と言っていたくらいでした。
社内では色々な規定を見直しました。それまでの就業規則や賃金・退職金規定などは雛型通りで、うちの会社に沿っていない部分もあったので徹底的に見直しました。賃金・退職金規定もある会社のものを見せて頂き、それをもとに当社に合ったものを作成しました。専門家に頼らず自分で作ったので、労働基準監督署に行ってOKをもらった時はうれしかったですが、これからしっかり会社を経営していかなければという思いが起きました。
平成6年、町屋の赤札堂に出店
出店の話に戻ります。
副社長になってからの大井町・草加丸井の出店は父が予め方向性を決めていたので私はあまり関わっていませんでしたが、ある日うちにとっては初めてのオーナー赤札堂から出店依頼がありました。場所は町屋です。
赤札堂さんは名前の通り安売りを売りにしている店で、さくらトイスはおもちゃの安売りができないので断りましたが、先方がどうしてもと家賃を非常に下げた条件を出してきたので承諾し平成6年(1994年)に出店しました。
案の定売り上げは思っていたようには行かず、店長はすぐに引き上げました。商品の品揃えは本部がコントロールして、売場は若い女子社員二人に任せました。この二人は地元の人で、よくやってくれました。
店内にミニ四駆の小さなコースを用意して子供たちがいつでも楽しめるようにしたり、「孫のために買ったファミコンがテレビに接続できない」とおばあさんから電話があると、その家まで行って繋いであげたり、自分たちの出来ることは身を惜しまずやってくれました。
私もハイパーヨーヨーやベイブレード大会など色々なイベントを用意したりして、店の集客には手を尽くしました。
あるときは「ビルの屋上でイベントを開催したい」と申し出たところ、
「ビルが古く、屋上は人が集まりすぎると重さで崩壊する恐れがある。危ないので、隣のビルの会場を借ります」と、赤札堂が借りてくれこともありました。
さくらトイスは、赤札堂がそのビルを壊すまでの10年間ほど営業していました。
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