見出し画像

聖書を印刷した男は火刑で殺された。教会は「知識」を独占したかった。

昔から、支配層は「大衆」には無知でいて欲しいのですね。

***

これは読書感想文です。実は私の日記なのですが、せっかく書いたので転載します。元が日記なので独善的で不快な文章です。繊細な方は読まないことをおすすめします^^;

内容は、15世紀の活版印刷の実用化が、宗教、ひいては文化にどのような影響を与えたかというような話です。

***以下、日記より転載*******************

イスラム指導者と同様で、キリスト教の聖職者にとっても、印刷技術は非常に危険なものだった。

まず、それまでは聖書は聖職者だけのものだったので、キリスト教文化圏における権威と権力は聖職者が独占していた。神の教え(預言)を人々に伝えられるのは聖職者しかいなかったからだ。

それだけならばいいが、聖職者は実際には、聖書を好き勝手に解釈して、好きなように信者を操っていた。例えば信者に性行為を強要したり、金を取ったりだ。

だから彼らは信者に聖書を読ませたくなかった。そして一番最初に聖書を印刷した人物は、もう少しで殺されるところだった。しかし、彼はラテン語で書いたので死なずに済んだ。ラテン語を読める人など滅多にいなかったからだ。
ところがこれを(平易な)英語かドイツ語に翻訳する奴が現れた。そして数千部が印刷されたらしい。その男は教会によって火あぶりに遭って死んだ。罪状は「聖書を勝手に(間違って)解釈した」というもの。つまり異端審問だ。

ガリレオが教会に殺されそうになった頃の話だ。その後かなり多くの人間が火あぶりにされたようだ。しかし、それでも印刷する奴は次々に現れて、聖書は信者のもとにばらまかれることになった。
そして現在に至る。

たぶんプロテスタント(反抗する者の意)がカトリックから分かれたのは、聖書が印刷されたからだと思う。
ところがプロテスタントは、しばらくは「正義の人」を気取っていたが、すぐに腐敗して、カトリック教会と同様に性犯罪や金品の搾取を始めたらしい。

***

一方、コーランが印刷されることは長いことなかった。英語やドイツ語の文字は20~30個しかない上に、一個一個が独立しているが、アラビア語は違う。故に活字印刷は困難だからだ。

画像1

したがって、一般信者がコーランを読むことはなかった。「イスラム教の教え」というのは「イスラム指導者の教え」のことだったのだ。

インターネットが普及するまでは!!!

ネットの普及で、モスレムはコーランを直接読むようになった。そして「指導者」の話が微妙におかしいことに気づいた。コーランには「異教徒は認めるな。改宗させるか殺せ」と書いてある。

そして、これを実行するモスレムが現れた。すなわち「イスラム原理主義者のテロリスト」だ。9.11テロが、ネットが普及した直後に起きたのは、偶然ではない。

***********

ぶっちゃけキリスト教もイスラム教も、宗教の名には値しないと思う。あれは人間を支配するためのシステムの一つだ。

日本では中世に仏教が利用されたようだ。そしてもちろん近現代では天皇制(神道)が戦争のために利用された。

そして今日現在では、資本主義が支配のシステムとして利用されているが、これが本当に良いものかどうかは私には分からない。
ただし資本主義を採用した場合は、ほとんどの場合に民主主義がついてくるので、独裁者の出現は防げる。
個人的には、私に主権があるんだったら、まあそれでいいかと思う。

しかし民主主義が有効に働き始めたのは1820年頃であり、たかだか200年の歴史しかない
民主主義が機能するためには、資本主義が必要であり、そのためには金融、科学、移動手段、通信、私的所有権などが必要だったのだ。
所有権の概念はその本人の身体の所有権に拡張され、そして行動や言論の自由に対する権利に拡大し、人権が生まれた。

裏を返せば、言論の自由や人権というのは最近の流行りに過ぎない。しかもローカルなものだ。

だから人権問題を共産主義者にとやかく言っても始まらない。(現実の)共産主義は形を変えた封建主義だからだ。
そして「人権尊重」が「正しい」かどうかという議論も無意味だ。「正義」という概念は民主主義に固有のものだからだ。
それ以外では神の言葉が全てだ。正しいも正しくないもない。
現実的には宗教指導者がOKと言えばやるし、NGと言えばやらない。
それだけだ。
中国では習近平の言葉が神の言葉だ。「正しい」も「正しくない」もない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?