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『タイタニック』パロディから見るフェミニストの考え方

※以前のnote記事「映画『タイタニック』のパロディから見るフェミニズム」の続編記事として当記事は書いている。したがって当該記事の読了後に今回のnote記事に目を通してもらう方が理解し易いとは思うが、ある程度独立した論の進め方をしている。もっとも、以前の記事に加筆修正する形で文章を書いていたのだが、すこし分量が増え過ぎた故に独立させたという経緯がある。それゆえ独立して読むには齟齬が生じている可能性がある。その場合はご寛恕願いたい。


■『タイタニック』パロディの肝

 さて、先のnote記事でも引用した『タイタニック』のパロディとは以下である。

 このパロディで皮肉られているものは一般的な男女平等ではない。しばしばフェミニストが主張する「これまで女性を抑圧し男性を優遇していたのだから、これからは男性が抑圧されて女性が優遇されることが、男女平等ってもんでしょ?」という、なんとも奇妙な男女平等を揶揄しているのだ。併せて、「普段は『女性は男性と同等の能力がある』と主張するにも拘わらず、生命の危機がある状況だと普段の主張は何処へやら、『男性の方が強いでしょ?』と言い始める」という女性達のご都合主義的な行動を皮肉っている。

 上記のパロディの肝をおさえたうえで本論を読んでもらいたい。


■「男女平等」の御題目で「男女不平等」を弁護するフェミニストの矛盾した行動

■■弱者男性を巡る或るフェミニストの言動

 「男女平等」と「過去にやられたことをやり返すこと」とは一致しない。いや、無限定でそのように考えることは正確ではない。すなわち、前節で取り上げた『タイタニック』のパロディにおける男女平等の原理(以後、Tパロディ平等原理と呼ぶ)が正しくない限りにおいて、「男女平等」と「過去にやられたことをやり返すこと」とは一致しない。

 したがって、Tパロディ平等原理が正しいとする立場に立てば、過去にやられたことをやり返すことが男女平等と一致することは有り得る。逆に言えば、「過去にやられたことをやり返すことが男女平等と一致する」と考える立場はTパロディ平等原理が正しいとする立場と言える。

 「いやいや、まさかTパロディ平等原理みたいなトンデモ原理を支持するフェミニストなんていませんよ。そんな存在はアンチ・フェミニストの妄想なんじゃないですかね?」と反論するフェミニストが居るかもしれない。個人的にはTパロディ平等原理を振りかざすフェミニストの主張をしばしば見かけるのだが、「蜘蛛が平気な人は蜘蛛をなかなか認識しないが、蜘蛛が嫌いな人ほど蜘蛛をよく認識する」という、嫌いな人ほど意識してしまう人間の傾向の表れかもしれない。

 そこで、Tパロディ平等原理に基づく主張がジェンダー正義に適った原理であるかの如く堂々と主張するフェミニストの様子がよく分かる事例を、一つ上げてみよう。

 まず、以下の文章がはてな匿名ダイアリーに投稿された。

 とある女性アカウントがTwitterにいて、高身長で高学歴で優しく大手企業勤務の夫、高身長で学生時代からモテモテでアメリカの大学に留学している息子を持つ女性を自称していた。旦那との晩酌で高いワインを自慢したり、夫と息子からのプレゼントを自慢したり、海外旅行の様子をアップしたりしていた。

 そしてそれと並行し、とにかく非モテ男性と低身長男性を馬鹿にしまくっていた。彼女が他の非モテ叩きと異なるのは、根本からの存在価値の否定をしていた。「努力しろ!」や「自業自得!」ではなく「そもそも外見が悪いお前らに男としての価値はないので自分の機嫌を自分でとって大人しく生きていろ。そんでサンドバッグにはさせろ」という趣旨の発言をしまくっていた。

 彼女には女性ファンが多く、「憧れです!」というコメントも多かった。

 しかし、留学中の息子の彼女(裕福な白人家庭の娘)の実家の写真が実は他のサイトからの転載であることが発覚し、それ以降次々と過去のツイートの写真などの転載が明らかになり彼女は活動を停止した。

 多くの女性ファンは彼女の嘘を非難するのではなく、活動停止を悲しんでいた。「弱者男性に対するキレキレさが大好きだった」とか「彼女の非モテ叩きは身も蓋もなくて痛快だったのに…」という感じだった。

 女性は非モテ男性が嫌いだ。関わりたくないと思っている。ならば弱者男性や非モテ男性なんて無視して一切触れなければ良い。自分のことを都合の良い女として弄んだイケメンや自分を選ばなかったハイスペ男性だけ叩いておけばいい。

 それなのになぜ彼女達は非モテ男性や弱者男性を叩くのが好きなんだろう。関わりたくはない。付き合う気もない。でも日々のストレスを発散したり、自分よりも無価値な存在を確認するためのサンドバッグにはさせろってこと?

 女性はなんでこんなに性格が悪いんだ。娘を持つ親はもっとしっかり人間性を躾けてくれ。

「とある女性アカウントへの反応から見る女性の底意地の悪さ」はてな匿名ダイアリーより
(但し、引用にあたって改行を適宜加えた)

 上記の文章で主張されている内容に対して色々とコメントしたいのだが今回は割愛しよう。

 さて、本題はこの文章についたコメントである。

 男尊女卑、っていうふる~~~くからある言葉がありましてね

 「関わりたくはない。付き合う気もない。でも日々のストレスを発散したり、自分よりも無価値な存在を確認するためのサンドバッグにはさせろってこと?」をずっと思ってきた相手がやり返されたら、ものすごいことのようにいう。こっちにとっては慣用句のようにありふれたことなんですけど。笑

物事の原則って、やるならやられる覚悟で、じゃない?

 フェミニズムは、今までなんの根拠もなく性別だけを理由に人類の半分を人類の半分が虐げてきたマイナスをゼロに戻す運動です。

 特定の職業につけない期間(医者弁護士にはそもそもなってはいけないという謎の法律)投票権がない期間このあたりはやりかえさずに社会の平和を重視して、やられっぱなしで我慢してやってんじゃん。

こちらはプラマイゼロで十分なので、やったことはやられても文句言わないでください。

はてな匿名ダイアリーより(但し、引用にあたって改行および句読点の追加を適宜行った)

 なかなかのTパロディ平等原理主義者っぷりである。ただし、トンデモな主張を振り回すフェミニストに有り勝ちであることだが、大抵の場合に彼女らの主張の土台である奇妙な原理は複数であることが多い。上記のフェミニストのコメントに関しても、単に彼女がTパロディ平等原理主義者であるからだけではなく、Tパロディ平等原理の観点でも見てもおかしい主張をしているのだ。すなわち、彼女のコメントの主張にはおかしな原理が幾重にも重なっているため、ツッコミが交通渋滞を引き起こす事態となる。このため、Tパロディ平等原理主義者である点を批判するだけでは、そのオカシさを示しきれないという何とも言えない状態となっている。

 譬えてみれば、プロレスのタッグマッチのマイクパフォーマンスで飛び出した小島聡の迷言「1+1は2じゃないぞ。オレたちは1+1で200だ!10倍だぞ10倍」と同じような状態なのだ。因みに小島聡の迷言についてみれば「タッグのシナジー効果を示すレトリックとして『1+1は2ではなく200だ』と表現しているのは良いとしても『単に足し合わせた2ではなくシナジー効果のある200になった』というならば10倍ではなく100倍ではないのか?」という複雑なツッコミが為される構造を持っている。

 上記のフェミニストの主張に関しても同様で、(おかしな)Tパロディ平等原理に基づく主張であるだけでなく、そのTパロディ平等原理で考えたとしても奇妙な点があるという構造を持っているのである。

 もっとも、プロレスラーのマイクパフォーマンスはノリと勢いで大して考える時間も無く叫んでいるのでヘンテコな事を言ってしまうのも理解できなくもない。だが、プロレスラーのように当意即妙の口上合戦が要求されているわけでもない状況で、フェミニストがノリと勢いで大して考えもせず「私たちは正義を主張している!」と囀っていることには、呆れ果てる他ない。

 さらに、当該フェミニストのトンデモ原理の組み合わせは比較的よく見れれる組み合わせで、言ってみれば彼女らの御用達のハッピーバリューセットのようだ。つまり、少なからぬ数のフェミニストそのヘンテコさ加減に気づかないまま使い回している状況にある。彼女らは頭を使っていないのか、頭を使ってもその程度なのかは不明だが、何にせよ勘弁してもらいたいものだ。

 以上のような事情を踏まえた上で、上記のフェミニストのコメントにおける主張をこれから見ていくことにしよう。


■■Tパロディ平等原理と男女平等

 さて、はてな匿名ダイアリーにおける二者の主張のテーマは下記の待遇である。

「関わりたくはない。付き合う気もない。でも日々のストレスを発散したり、自分よりも無価値な存在を確認するためのサンドバッグにはさせろってこと?」

はてな匿名ダイアリーの大元の記事の主張とフェミニストのコメントにおける主張のテーマ

 つまり、「関わりや付き合いも無い人間の、日々のストレス発散のためや自分よりも無価値な存在を確認するためのサンドバッグになるという待遇」(以後、この待遇を待遇Aと呼ぶ)を巡る議論がはてな匿名ダイアリーにおける二者の議論である。すなわち、この待遇Aを巡って、大元の記事においては「待遇Aは劣悪であるから改善せよ」と主張しているのであり、フェミニストのコメントにおいては「待遇Aは男尊女卑社会における女性の待遇であったのだから、今後は男性が待遇Aを受けることは不当ではない」と主張しているのだ。

 両者の主張を見比べてみると明確であるが「待遇Aが劣悪な待遇である」という認識については両者が一致している。しかし、他方の性別から待遇Aという扱いを受けている人間の状況に対する判断が両者で異なるのである。すなわち、「改善すべき」と「そのままでよい」という判断の違いが両者の相違点なのだ。

 さて、大元記事の主張である「待遇Aが劣悪な待遇であるので改善すべき」というものは理屈として分かり易い。原則的に劣悪な待遇というものは改善されるべきものだからだ。そして、弱者男性の待遇Aという扱いは原則から外れるような例外ではないとの認識下で大元記事の主張は為されている。

 一方、フェミニストのコメントにおける主張は「弱者男性が待遇Aという扱いを受けていることは、劣悪な待遇は改善されるべきという原則の例外にあたる」との認識下で為されているものだ。ではなぜ原則の例外となるのかといえば、そこにはTパロディ平等原理があるのである。つまり、「1912年のタイタニック号沈没において男性は女性に救命ボートの席を譲って海に沈んだのだから、2022年の沈没においては女性が男性に救命ボートの席を譲って海に沈め!それが男女平等だろう?」という主張を正しいとした原理に基づいて例外と考えるのだ。「優遇不遇を逆転させることは男女平等」とする平等原理から、「過去の女性達はまた別の形の不遇な待遇を我慢してきたのだから、(まったく別個の存在である)弱者男性は従容として待遇Aに甘んじろ!」という訳である。

 しかし、タイタニック・パロディのような女性が不利益を受ける状況に直面すれば、「これまで異性が受けてきた待遇なのだから、待遇が逆転しても甘受せよ」というTパロディ平等原理の不当さを当該フェミニストは喚きたてるだろう。もちろん、決然と引き受ける可能性はゼロではない。しかし、それはこれまでのフェミニスト達のアンフェアな言動から判断すると望み薄だ。例えば、有償・無償を合わせた週平均の総労働時間の男女差はたったの3分しかないことを隠しつつ「週平均の女性の無償労働時間は男性の5.5倍もある!」と糾弾するようなフェミニストの言説は、新聞紙上にしばしば登場する。つまり例示したフェミニストの言論活動において女性にとって不都合な事実は無かったことにしている。これまでそのような行動を取っているにも拘らず、待遇が男女で逆転すると女性にとって不利益な場合において「これまで異性が受けてきた待遇なのだから、待遇が逆転しても甘受せよ」というTパロディ平等原理にフェミニストが唯々諾々と従うと考えることは困難だ。

 原理原則というものは「自分にとって好都合なときだけ」成り立つ、あるいは適用されるような性質を持っていない。換言すれば、自分にとって不都合になれば成り立たない、あるいは適用されないのだと主張するようなシロモノは原理原則の名に値しない。したがって、Tパロディ平等原理というものはその観点からも"原理"の名に値しないシロモノなのだ。

 また、はてな匿名ダイアリーの記事の事例に立ち返って考察するならば、そもそも待遇Aを改善せずに放置する道徳的正当性が見いだせない

 ここでフェミニストから「男尊女卑社会においては放置しても咎めれていないのだから、男女の立場を入れ替えた場合について放置する道徳的正当性が失われると考えるのはオカシイのではないか?」という反論があるかもしれない。しかし、男女の立場を入れ替えた場合について待遇Aを放置する道徳的正当性が存在する社会とは、男尊女卑社会の男女を入れ替えた女尊男卑社会に他ならない。社会に対するメタ評価をすれば男尊女卑社会も女尊男卑社会も道徳的地位は等しいのだから、フェミニストが「男尊女卑社会は悪だ!」と主張する限りにおいて「女尊男卑社会もまた悪である」のだ。したがって、フェミニストが「男尊女卑社会は悪だ!」と主張する限りにおいて、男女の立場を入れ替えた場合についても待遇Aを放置する道徳的正当性が失われるのである。

 結局のところ、Tパロディ平等原理というものは「これまでが男尊女卑の場合は女尊男卑に、これまでが女尊男卑の場合は男尊女卑にする」とするのが平等であるという原理である。言い換えると「"尊と卑"を一切合切逆転させるという平等原理なのである。つまり「男女の尊卑を等しくする=男女平等」とは異なる平等原理なのだ。更に言えば、Tパロディ平等原理に対して"平等原理"と銘打ったものの、その原理が要求する「"尊と卑"を一切合切逆転させる」ということを完全に実行し得たとしても本当に男女平等が社会において実現すると言い得るかどうか相当に疑問である。むしろ、そんなことでは男女平等は実現され得ないと考える方が妥当であるだろう。





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