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フェミニズム界隈でよく見るワタバウティズム(Whataboutism)という言葉

■ワタバウティズム(Whataboutism)とは

 ある形式の論点ずらしを仕掛けてくる相手に対して「君がやっていることはワタバウティズムという詭弁だよ」と指摘すると、相手は自分がやっている論点ずらし行為がダメな行為であると納得することが多い。そんな結構便利な言葉として「ワタバウティズム(Whataboutism)」という言葉がある。

 このワタバウティズムという用語であるが新たな造語であるのでまだ権威のある辞典には載っておらず、Wikipediaにその説明がある程度である。そのことはワタバウティズムが何であるかについて確たる定義が定まっていない段階にあることを意味している。したがって、現段階においてその概念内容がある程度流動的であることを念頭に置いておく必要がある。

 いささか不確かであろうが議論の応酬において実際に用いられている用語であるので、まずはWikipediaにおける説明文と具体例を引用することでその意味をおさえておこう。

Whataboutismは、何かを批判された者が “What about...?”(じゃあ○○はどうなんだ?)と相手や第三者の別の言動を持ち出して言い返すような論法である。例として、以下のようなものがある。

・ソ連が西側諸国から人権抑圧を非難されたのに対して「そっちだって過去に奴隷制度があっただろう」と切り返す

・遅刻を批判された者が「君だって忘れ物をするじゃないか」あるいは「○○さんだってよくドタキャンするよ」というように言い返す

・性暴力被害の話に対して「冤罪もあるだろ、それはどうなんだ!」というように返す。

・ブラック・ライヴズ・マターに対して、「アジア人差別や、ときには白人差別の問題だってある」と論点をずらす。

Wikipedia【Whataboutism】の項

 さて、この聞きなれないワタバウティズムという用語であるが、この用語が指し示す意味については、Wikipediaの説明から理解できるように「論点すり替えの詭弁」の一種である。そして、古来から「論点のすり替え(ラテン語: ignoratio elenchi)、論点相違あるいは論点無視の虚偽」という非形式的誤謬は議論における詭弁の問題として認識されており、新たな類型の詭弁が発見されてワタバウティズムという名前がついた訳ではない。このことは、ワタバウティズム言説についてワタバウティズムの用語の代わりに「論点ずらし」あるいは「論点すり替え」の用語に入れ替えたとしても問題が生まれないことからもハッキリしている。

 とはいえ、ワタバウティズムという用語に関しては別に「古い名前から新しい名前に替えただけの用語」というような単純な話でもない。なぜなら、論点ずらしがすべてワタバウティズムに当てはまるわけではないからだ。例えば、国会で用いられたことで有名になった論点ずらしの一類型として「ごはん論法」があるが、ごはん論法はワタバウティズムではない。したがって、「ワタバウティズムは論点ずらしである一方で、論点ずらしであってもワタバウティズムにならないものがある」という関係からみて、論点ずらしの下位概念としてワタバウティズムがあるといえるだろう。

 そのことを踏まえて、論点ずらしの下位概念としてのワタバウティズムにはどのような特徴があるのかを見てみよう。

 ワタバウティズムの語源はWikipediaの説明にもあるように批判された者が「 “What about...?”(じゃあ○○はどうなんだ?)」と言い返す言葉にある。この語源からも明らかなように「露骨な論点ずらし」がワタバウティズムである。つまり、ごはん論法のような巧妙に論点をズラすような論点ずらしではなく、ハッキリと論点をズラしたことが分かるという特徴を持っている。

 ただ、この分かり易さが後述するように「それはワタバウティズムだ!」と非難することの濫用を生んでいる。

 それというのも、議論相手の主張を崩すような指摘は当然ながら大元の主張とは別の要素が含まており、それが外見的には論点ずらしと非常に類似しているからである。したがって、その外見的類似から、妥当な言説をワタバウティズム言説として安易に捉える濫用が生じてしまうのである。


■ワタバウティズムと非ワタバウティズムの関係

 ワタバウティズムとは露骨な論点ずらしである、ということは前節で述べた。このことはワタバウティズムという詭弁が非常に目立ちやすい特徴を持っているとも言い換えることができる。つまり、「これはワタバウティズムだよ」と説明されると、「なるほど、これがワタバウティズムですか」と直ぐに分かるという特徴を持っている。

 しかし、ワタバウティズムと非ワタバウティズムが容易く弁別できるのかと言えばそうでもないのだ。

 ちょっと判じ物のような印象を受けるかもしれないが、事態を理解してしまえばそう難しいものではない。この事態について譬えで説明するならば「猛毒のサンゴヘビと無毒のニセサンゴヘビとそれ以外のヘビの区別」に擬えることができる。

 サンゴヘビとニセサンゴヘビは赤・白・黄色・黒などの縞々模様のヘビで、茶色系統の色合いのアオダイショウやヤマカガシあるいはガラガラヘビやコブラとは一線を画する、非常に目立つヘビである。もちろん、コブラなども特徴的なヘビではあるのだが、そういう他のヘビの目立つ特徴とは無関係に、紅白や赤黒黄のしましまマフラーのようなサンゴヘビとニセサンゴヘビは目立つヘビなのだ。したがって、そのような色合いと模様のヘビが「サンゴヘビorニセサンゴヘビ」であるところまでは容易に判別がつく。しかし、そこから先の「サンゴヘビなのか、ニセサンゴヘビなのか」の区別が難しいのだ。つまり、サンゴヘビとニセサンゴヘビの違いはヘビに詳しくないとよく分からない。

 ワタバウティズムを巡る問題も同様の構造を持っていて、「ワタバウティズム言説」「ワタバウティズムに似た妥当な言説」「それ以外の言説」に関して、「ワタバウティズム言説orワタバウティズムに似た妥当な言説」と「それ以外の言説」は簡単に区別がつく。しかし、「ワタバウティズム言説」なのか、「ワタバウティズムに似た妥当な言説」なのかの判断は、かなり難しい。

 いや、「ワタバウティズムなのか、あるいはそれに似た妥当な言説なのかの判断がかなり難しい」という表現には語弊がある。議論というものに詳しければ、ワタバウティズムなのか非ワタバウティズムなのかの弁別はそこまで難しいものではない。しかし、あまり議論というものに詳しくない人にとっては弁別が難しいのだ。

 そして、ワタバウティズムなのか非ワタバウティズムなのかの弁別が困難である、議論に関する一般的な人々の理解度の水準(※ちなみに一般の人全員が議論そのものについてそこまで詳しくなくとも不思議ではない。我々の社会において論理学や修辞学のような議論自体に関わってくる知識よりも重要視してもよい知識は数多くある)に付け込んで、意識的か無意識的かを問わず「ワタバウティズムのワード」を悪用ないしは濫用するケースはそれなりに見受けられる。

 そこで、そういったワタバウティズム概念を悪用や濫用する人間に騙されないようにするために、ワタバウティズムの濫用についてこれから考察していこう。


■『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式の非ワタバウティズム言説の存在

 ここで「それはワタバウティズムだ!」という反駁の方が明らかにオカシイということが議論のテーマから直観的に分かる架空の例を用いて、妥当な言説をワタバウティズム言説として捉える濫用に関して具体的に解説しよう。そして、そのことでワタバウティズム言説と勘違いされやすい、『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式の非ワタバウティズム言説の存在を明らかにしよう。

 さて、次のような「幸運の壺と家族の幸不幸」を巡る議論がなされたとする。

Aの主張:「幸運の壺によってXさんの家族は幸せが訪れた。Xさんの父親は会社役員まで出世し、Xさんの妹は希望する大学に合格した。そして、Xさん自身も素敵な恋人ができた」

Bの批判:「でも、同じ幸運の壺を買ったYさんの家族はむしろ不幸になっているよ?Yさんの父親が勤務していた会社が倒産して厳しい家計状況なったからYさんは進学を諦めて就職したよ。『幸運の壺によって幸せになる』って考えているのはおかしくない?」

Aの反駁:「Bの批判はワタバウティズムっていう詭弁なんだよ。だって、私は『Xさんの家族の話』についての主張をしているんであって『Yさんの家族の話』をしてないよね?今の議論の『Xさんの家族がどんな風に幸せになっているか』という論点から、『Yさんの家族がどんな風に不幸になっているか』という論点にすり替えようとしている。私がXさんの家族の話をしていたら、Bは『じゃあ、Yさんの家族はどうなんだ?』という批判してきたわけだから、まさしく “What about...?”という形式の言説なんだから、Bの批判はワタバウティズムなんだよ」


 上記の例においてAの反駁が正しいとの印象を抱く人は居ないと思われる。ではなぜ、Aの反駁において表れる「ワタバウティズムというワード」および「ワタバウティズムの意味が指し示す言説の形式」に惑わされずに、Aの反駁の方がオカシイと我々は気づけるのだろうか。

 それは「幸運の壺によって幸せになる」というのがパワーワードだからだ。霊感商法で社会問題になった「幸運の壺」というワードは、反駁に登場するワタバウティズムのワードなどと比較にならないぐらいに我々の関心を惹起する。胡散臭さが大爆発している「幸運の壺」というワードの強さは、あまり聞きなれないワタバウティズムというワードが登場しても我々の注意を逸らさせないのだ。それゆえ、ワタバウティズムがどうのこうのと言われようが、Aの主張とは無関係の論点をBが提出しているのではなく、Aの主張の中に存在している幸運の壺の問題にBがフォーカスを当てて批判していることに関して、Aの主張の中の「幸運の壺」がパワーワードであるがゆえに我々はそのことを忘却しないのである。

 さらに、Aの主張の「幸運の壺によって幸せになる」という前提がデタラメであるという社会通念が我々の間にすでに形成されていることによって、議論の観衆である我々はAが反駁する前から「きっとAの反駁はオカシイだろう」という疑いの目を持ってAの反駁を検討する。したがって、Aが反駁において「Xの家族の話をYの家族の話にズラそうとしている!だからBの批判は私が主張していることとは別の論点を出してくるワタバウティズムだ!」とする抗弁に対して、議論の観衆は「いやいや、Bの批判はAの主張のなかに存在している問題を指摘しているんじゃないか。論点ずらしなんかじゃないぞ」といったように、ワタバウティズムというワード自体やワタバウティズムの意味が指し示す言説の形式に惑わされないのである。

 以上のことから理解できると思うが、『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式、すなわち “What about...?”という形式の言説であっても、ワタバウティズムという論点ずらしに当たらない非ワタバウティズム言説は存在する。それにもかかわらず、言説の『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式だけからワタバウティズムであると判断するような、早とちりをするワタバウティズム概念の濫用が多々存在するのだ。

 この例のような「ワタバウティズムのワード」が登場しようが直観的にそれが間違っていると判断できるような幸運なケースであれば、議論ないしは言説の構造についてあまり理解していなくともワタバウティズム概念の濫用に気づけるのだが、なかなかそういう幸運なケースは少ない。したがって、そのような幸運に頼らずともワタバウティズム概念の濫用に気づけるためには、「外見上はワタバウティズム言説に類似している、妥当な非ワタバウティズム言説」の構造について理解しておく必要があるといえるだろう。


■ワタバウティズムと外見上類似した非ワタバウティズム言説の構造

 ここで非ワタバウティズムである妥当な批判である、Bの批判の構造を明らかにして、「外見上はワタバウティズム言説に類似している、妥当な非ワタバウティズム言説」の構造への理解を深めよう。

 さて、Bの批判を一言で言い表すと以下のようになる。

 Bの批判は反例を出すことでAの主張を否定ないしは主張の修正を迫るものである。

 流石にこれだけでは理解しずらいだろうから詳しく説明しよう。

 「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という枠組みのなかで「Xの家族の幸福さ」を主眼に論じるのがAの主張である。したがって、Aの視点に立てば(Aの)議論の中心となる論点は「Xの家族の幸福さ」であって、その他の論点はAにとって論じたい論点ではない。更に言えば、「Xの家族の幸福さ」以外の論点が議論において論じる対象になること自体がAにとって想定外と言ってもいいだろう。つまり、Aが想定する議論というものは「ホントにXの家族は幸福になったんですか?」「Xの家族の幸福ってどんなものなんですか?」等の「Xの家族の幸福さ」を巡る議論なのである。それゆえ、「(幸運の壺を買った)Yの家族の不幸さ」が持ち出されると、Aにとっては想定の範囲外の論点が持ち出されたと感じるのである。そこから、「自分が主張したい論点」とは異なる論点が議論の俎上に上ったために、(自分が主張したい論点からの)論点ずらし=ワタバウティズムであると主張するのだ。

 さて、議論に関するそもそも論をするならば、自分が主張したい論点からの議論だけが議論として許容されているわけではない。自分および相手の論点と繋がっている、より土台に近い論点で議論が為されることも多々あるのだ。後でより詳しく論じるが、議論は「相手と自分が同意できる所からスタートする」のである。ある水準の論点について両者の間で同意が取れないのであれば、より根源に遡って同意を取っていくのが議論である。そして、両者の同意が取れたならば、そこから上に上がっていくのである。

 「幸運の壺と家族の幸不幸」を巡る議論の例において、Aは「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という議論枠組み(=土台)の上に成立している「Xさんの家族の幸福」を論点として議論しようとした。だが、そんな「Xさんの家族の幸福」という論点よりも遥か手前の論点の「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という議論枠組み(=土台)に関して、BはAに同意していない。

 「Xさんの家族の幸福」についてのAの主張の土台となっている「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という前提においては、幸福になった人全員が幸運の壺を持っている必要は無いが、幸運の壺を持っていれば全員が幸福になっていなければならない。つまり、以下の包含関係を示す図において「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という前提は、条件pを「幸運の壺をもっている」として条件qを「幸福になる」とした「PはQに含まれる」という包含関係になる。すなわち、条件pを満たしている要素(あるいは元)は全て条件qを満たすはずなのだ。

 しかし、「幸福になっていない、幸運の壺をもっているYさん家族」という存在がいることを、Bは知っている。そうなると「Xさんの家族の幸福」についてのAの主張の土台となっている「幸運の壺を持っていれば幸福になる」という前提をBが無条件で受け入れることは到底ありえない話になるのだ。

 なぜなら、Yさん家族は、条件pを満たすにも拘らず、条件qを満たさないからだ。すなわち、Yさん家族(yと表すことにする)は、y∊Pかつy∉Qとなり、PとQの包含関係とy∉Qであることからy∉Pとなる。つまり、「y∊Pかつy∉P」となって矛盾が生じてしまっているからだ。

 この矛盾が放置されたまま、矛盾を含む前提で議論を進めることはナンセンスである。なぜなら、前提の誤りは結論にまで引き継がれるからである。もっと言えば、矛盾を正しいとするとどんなことでも言えてしまうので議論自体の意義を消失させてしまうのである。

 したがって、BがAとの議論をスタートさせるためには、この矛盾をなんとかAに解消してもらう必要がある(ただし、現実的には「アンタの言っていることは信用ならん!」とBはAとの議論を切り捨てるのが賢明である)。

 このときAは、以下のような修正を図られなければならない。

  1. yは条件pを満たしていないと主張

  2. yは条件qを満たしていると主張

  3. 「幸運の壺を持っていれば幸福になる」というのは原則であって、例外があると主張

 すなわち、「もっと高価な壺でなければ意味がないのだ(=霊感商法の常套手段)」「いやいや、父親の勤めていた会社が倒産した程度やYさんが進学を諦めた程度で済んで彼らは幸福なんだ。ホントはもっと不幸だったんだ(これもよくあるインチキ宗教の言説)」「普通の人だったら壺だけで幸福になれるけど、先祖の悪縁のある人は教団に多額の喜捨をして教祖から祝福を受けないとダメなんだ(インチキ宗教が信徒からカネをむしり取るときの言説)」といった形で矛盾を解消しなければならないのだ。

 まぁ、当然ながら上のAが行うであろう矛盾解消のための言説もまた「そんなもん、同意できるか!」として蹴とばしてもよい。また、(あり得ないとは思うが)十分に説得的な言説によって矛盾を解消できたならば、その修正された前提を元に「Xの家族の幸福さ」というAが望む論点にまで議論の段階を引き上げることが可能になる。

 つまり、ワタバウティズムと外見上類似した非ワタバウティズム言説というのは、議論の論点をより根本的な論点に引き下げて、相手と自分が議論のスタート地点となる「お互いの合意」を生み出すための言説であると言えるのだ。


■スタート地点となる合意の形成のために論点を遡ること

 前節において、議論は「相手と自分が同意できる所からスタートする」という話をした。そして、ある水準の論点について両者の間で同意が取れないのであれば、より根源に遡って同意を取っていくのが議論であり、両者の同意が取れたならばそこから上に上がっていくと述べた。ワタバウティズムの話とは少し外れるのだが、この節ではそのことを取り上げよう。

 まず、「ある水準の論点について両者の間で同意が取れないのであれば、より根源に遡って同意を取っていくのが議論」という議論の性質について、カップルの話し合いを具体例にとって考察しよう。

 さて、カップルの彼の方が次のように彼女に尋ねたとしよう。

彼C「次の週末に行く場所は水族館か映画館かどっちにしようか?」

 このとき、彼と彼女の間でCの問いかけの大前提となる「来週末に出かけることの合意」があるならば、次のような議論になるだろう。

彼女D「そうねぇ。バービーって映画が話題だから映画にしない?」
彼C「へぇ、そんな話題作があるんだ。その映画ってどんな感じの映画なの?」・・・

 しかし、彼と彼女の間でCの問いかけの大前提となる「来週の週末に出かけることの合意」が無ければ、「水族館か映画館かという出かける先」に関する論点よりも遡って、出かけ先の論点の土台となっている「来週の週末に出かけること」の論点が議論の論点になるだろう。

彼女D「え?来週の週末ってどこかに遊びに行く約束してたっけ?」
彼C「約束したよ。覚えてないの?」
彼女D「いつ約束したんだっけ?」
彼C「ホラ、ラーメン屋の金魚の水槽みたとき、ファインディング・ニモの話題になったじゃん。あのときだよ」・・・

 さて、これまではCとDがカップルという前提で話をしてきたが、カップルなのか微妙な場合に、Cが最初の問いかけをDにしたとしよう。このときは、「水族館か映画館かという出かける先」という論点よりもっと根源的な「そもそも自分達は男女交際している関係にあるのか」が論点になるだろう。

D「なんでそんなデートっぽい行先になってるの?私達は単なる麻雀仲間じゃない。来週末は居酒屋で駄弁るとかって話じゃないの?」
C「え?俺達は付き合っているんじゃないの?」
D「いやいや、カレカノみたいな話したことないし、そんなムードになったこともないじゃない」・・・

 以上のカップル(かどうか微妙な関係の場合も含めた)二人の議論から、最初に提示された論点を成立させている土台となる前提において両者の合意が無い場合、その前提が新たな論点として議論される構造にあることが明らかになったのではないかと思う。そして、その土台となる部分で両者の合意が(たとえ暫定的であっても)得られなければ、その土台の上に成立する論点には移れないことに関する理解も得られたのではないだろうか。

 では次に、「両者の同意が取れたならばそこから上に上がっていく」ということを具体的に見るために、再びカップルのCとDに登場してもらおう。

彼C「来週の週末に行く場所は水族館か映画館かどっちにしようか?」

【提示された論点の土台となる前提についての齟齬が発生】

彼女D「え?来週末ってどこかに遊びに行く約束してたっけ?」

【当初の論点の土台に議論の論点が遡る】

彼C「約束したよ。覚えてないの?」
彼女D「いつ約束したんだっけ?」
彼C「ホラ、ラーメン屋の金魚の水槽みたとき、ファインディング・ニモの話題になったじゃん。あのときだよ」
彼女D「そういえば、実際のクマノミも可愛いから見たいし、久しぶりに映画も見たいって話になって、来週末ならCも時間ありそうって言ってた」
彼C「水族館も映画館もDが行きたいって言ってたのに。まったく」
彼女D「ごめーん。でも、しっかりした来週末に行くって約束じゃなかったから忘れたんだよ。『来週末なら時間ありそう』っていうのは確定の話じゃないんだし」
彼C「まぁ、キチンとした約束かと言えば違うかもね。それはともかく、来週末に二人で出掛ける?それとも出掛けない?」
彼女D「それは出掛けたいに決まってるじゃない」

【土台の論点である「来週末に出掛けること」に関して両者の合意が取れたため、議論の論点が一段上の論点に上がる】

彼C「じゃあ改めて、水族館か映画館かどっちに行く?」
彼女D「そうねぇ。バービーって映画が話題だから映画にしない?」
彼C「へぇ、そんな話題作があるんだ。その映画ってどんな感じの映画なの?」・・・

 以上のカップルの遣り取りから理解できるように、水族館か映画館かどっちに行くかという論点の土台となる来週末に出掛けるという論点に関して合意が取れていない場合には、先に来週末に出掛けるという論点について議論する。

 このとき注意すべきこととして、当初の論点の土台となる来週末に出掛けるという論点の問題圏の疑問が議論において全て解消されている必要は無く(もちろん、全て解消されても良い)、暫定的合意や"一先ず棚上げ"という形の合意でもよい。この暫定的合意や棚上げ合意でも良いということは、カップルの遣り取りの例における「まぁ、キチンとした約束かと言えば違うかもね。それはともかく、来週末に二人で出掛ける?それとも出掛けない?」という言葉が、妥当な遣り取りとして我々が受け止めることからも理解できる。

 どのような形であれ、土台となる論点で両者の合意が得られたならば、議論はその土台の上に成立している論点に移ることができるのだ。そして、今度は土台の上に成立している論点での合意を議論において目指していくことになるのである。


■ワタバウティズムである言説の性質

 少しワタバウティズムから離れた話をしたが、再びワタバウティズムを中心に据えた考察に戻そう。さて、先にワタバウティズムと外見上類似した非ワタバウティズム言説について以下のように述べた。

ワタバウティズムと外見上類似した非ワタバウティズム言説というのは、議論の論点をより根本的な論点に引き下げて、相手と自分が議論のスタート地点となる「お互いの合意」を生み出すための言説である

 この非ワタバウティズム言説の性質から、逆にワタバウティズム言説の性質が明らかになる。つまり、上記のような性質を欠いた『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式、すなわち “What about...?”という形式の言説がワタバウティズム言説なのだ。

 この観点から見た典型的なワタバウティズム言説は、冒頭のWikipediaからの引用文中の以下の例がそうである。

遅刻を批判された者が「君だって忘れ物をするじゃないか」あるいは「○○さんだってよくドタキャンするよ」というように言い返す

Wikipedia【Whataboutism】の項 (再掲)

  この引用文は二つの事態を一纏めに例示した文である。そこでそれぞれを分けて見てみよう。

  1. 遅刻を批判された者が「○○さんだってよくドタキャンするよ」と言い返す

  2. 遅刻を批判された者が「君だって忘れ物をするじゃないか」と言い返す

 引用文が指し示す事態は上の二つの事態に分けられる。

 ただし、引用文における前後関係でいえば2.の事態の方が先に提示されているのだが、構造としては1.の事態の方が単純であるのでこの順番にしている。また、2.の事態は批判者資格を問う問題圏が存在している。この批判者の批判者資格を問うという問題圏は、属人論証の詭弁の問題として考えるべき場合と、批判者の道徳的地位に対する異議申し立てとして捉えるべき場合があり、論じるべき問題が広がってしまう。この批判者資格を問う問題圏についてもいずれは論じることにしたいが今回のnote記事では割愛し、また批判者資格を問う問題圏を除けば1.の事態も2.の事態も大差ないので1.の事態だけを取り上げることにしたい。

 さて、事態を検討するにあたっての注意点も挙げておこう。

 現実問題として1.の事態も2.の事態も、遅刻した者が遅刻を責められたくないために言い訳をしているだけであって本気で「遅刻が批判されること」に疑義を呈しているわけではない。真剣に「私の遅刻が批判されることは道理に合っていない」と考えて、その道理に合っていないと自分が考える論拠として「○○さんだってよくドタキャンするよ」や「君だって忘れ物をするじゃないか」という事実を提示した訳ではない。つまり、遅刻した者は自分が遅刻した事に関して「まぁ、批判されるのは当たり前だわな」と自覚しつつ、それでも批判されるのが嫌なのでワタバウティズムの詭弁で言い逃れをしようとしているだけのことである。そういう現実問題の話はおさえた上で、仮定の話としてそれぞれの言い訳に関して遅刻への批判に対する疑義として機能しうるとするとそれは如何なる構造を持っているかを検討するのが今回の目的である。

 では、さっそくそれぞれの事態を検討してみよう。

 遅刻に対する批判に「○○さんだってよくドタキャンするよ」と反論することはどのような意味を持っているだろうか。このことを考えるために「○○さんだってよくドタキャンするよ」という言説について分析してみよう。

 まず、登場する「○○さん」というのは遅刻者でも遅刻への批判者でもない第三者である。つまり、第三者の行状をあげつらった言説であると分かる。したがって、当該言説は、遅刻の批判者の批判者資格を問うという性質は保有していない、単に「他にこういうことしてる人も居るよ」という指摘に過ぎないことが分かる。

 また、「よくドタキャンする」という指摘は、批判対象である「遅刻行為」とは別種の迷惑行為である。一方で、ドタキャンと遅刻は先述のとおり分類すれば迷惑行為としてひとまとめに括れる行為でもある。

 そして、「○○さんだってよくドタキャンするよ」という言説は、「○○さんが頻繁にドタキャンする」という事実しか指摘していない。つまり、○○さんがドタキャンした後にどう行動しているか、また周囲がドタキャンした○○さんにどう対応しているかについて何も述べていない。また、○○さんのドタキャンがどのように評価されているかについても何も言及していない。

 以上の分析を踏まえた上で、「○○さんだってよくドタキャンするよ」という言説が、遅刻に対する批判への疑義になり得るかどうかを検討しよう。

 根本的に「○○さんだってよくドタキャンするよ」という言説(以後、「ドタキャン言説」という)は、単に「他にこういうことをしてる人が居るよ」という指摘に過ぎない。つまり、遅刻者とも遅刻行為ともその批判者とも何も関係がない言説なのだ。譬えてみれば次のような遣り取りとなんら変わる所が無い。

「見て!庭の木になってる柿をつついている悪いスズメがいる!」
「花壇のところをトイレにしているネコもいるよ」

 このスズメ言説とネコ言説はお互い独立している。つまり、ネコ言説が主張されたところで、スズメ言説に揺らぎが生じるなどといった事は起こらない。このスズメ言説とネコ言説の関係と、先に用いた例に登場する「幸運の壺で幸せになったXさん家族言説」と「幸運の壺を持っているけど不幸なYさん家族言説」との関係とを比較するとその違いは明らかだ。「不幸なYさん家族言説」は「幸せなXさん家族言説」の正しさを大いに揺るがせる。一方で、スズメ言説を主張したときにネコ言説が提出されても「ふーん。あっそう」といった感じで、スズメ言説がひっくり返るようなことは起こり得ない。遅刻に対する批判言説(以後「遅刻言説」という)とドタキャン言説も同様なのだ。第三者がしばしばドタキャンしていたとしても、遅刻者が遅刻行為で批判される正当性は小動もしない。

 もう少し詳しく考察しよう。

 遅刻がなぜ迷惑なのかといえば、当然ながら決められた時間に来ないことによって生じるさまざまな不都合ゆえに迷惑である。また、ドタキャンは急な予定変更に伴うさまざまな不都合ゆえに迷惑である。つまり、遅刻もドタキャンもさまざまな不都合を生じさせる迷惑行為である。すなわち、遅刻者の遅刻行為も○○さんのドタキャンも言ってみれば以下のような形で抽象化できる。

NがMという迷惑行為をした

 また、スズメ言説やネコ言説におけるスズメの行為やネコの行為も迷惑行為であるだろう。したがって同様に抽象化して考えることができる。

 このとき、遅刻言説やドタキャン言説あるいはスズメ言説やネコ言説について考察するならば、上記の抽象化した文のNのところに「遅刻者氏名・○○さん・スズメ・ネコ」が入る程度の違い、そしてMのところに「遅刻・ドタキャン・柿の実をつつく・花壇をトイレにする」が入る程度の違いでしかない。

 一方で、「遅刻言説やスズメ言説」と「ドタキャン言説とネコ言説」の間には大きな違いがある。前者は価値評価を含む言説であるのに対して、後者は事実提示の言説にすぎない。すなわち、遅刻言説は「遅刻を批判する」言説であり、またスズメ言説も「見て!悪いスズメがいる!」とスズメを非難する言説といった様に、言説に価値評価が含まれている。だが、ドタキャン言説は「○○さんはよくドタキャンする」という事実を、ネコ言説は「花壇をトイレにしているネコがいる」という事実を述べているだけである。つまり、以下のようにまとめることができる。

遅刻・スズメ言説:「NがMという迷惑行為をしたこと」を批判・非難する
ドタキャン・ネコ言説:「NがMという迷惑行為をしたこと」を提示する

 この上の関係を掴んでおくことが、ドタキャン・ネコ言説に関するワタバウティズム言説なのか非ワタバウティズム言説の弁別において重要である。

 それというのも、前々節でみたように、「反例を出すことで主張を否定ないしは主張の修正を迫るもの」であれば非ワタバウティズム言説である。したがって、ドタキャン・ネコ言説が、遅刻・スズメ言説で行われた批判や非難の根拠となる価値判断の基準に対する反例を提示したのであれば非ワタバウティズム言説なのであり、反例でもなんでもない事実を提示しただけであるならばワタバウティズム言説となる。

 上述の通り批判や非難は「ある価値判断基準」に基づいて行われる。この批判や非難の土台となっている「ある価値判断基準」を問い直す目的で為された事実提示、つまり、価値判断基準を共有できないことを指し示す事実を提示するのであれば、ドタキャン言説やネコ言説と同様の言説であってもそれは反例提示であるので非ワタバウティズム言説となる。

 しかし、大抵のケースにおいてドタキャン言説やネコ言説と同様の言説がワタバウティズム言説になるのは、その事実提示が反例の提示になっていないからである。

 このことを、これまでの例から見てみよう。

 遅刻と同様にドタキャンもまた批判される迷惑として扱われている場合が大半であり、スズメに柿がつつかれるのを嫌がるのと同様に、ネコに花壇をトイレにされることも嫌がられている。つまり、反論の言説で挙げた事実もまた、批判・非難がその根拠にしている価値判断基準においてそれぞれの事実に合わせて同様に批判・非難されている場合が大半なのである。それゆえ、そのような事実をいくら提示しても、それらが価値判断基準に対する反例となることはないのだ。

 したがって、批判や非難の土台となる価値判断基準を論点として問い直すといった言説ではないので、それらの言説はワタバウティズム言説になるのである。


■ワタバウティズム概念の乱用者の行動

 ワタバウティズム概念の乱用者はしばしば都合が悪くなると相手の批判に対して「相手の言説はワタバウティズムだ!」と決めつけて非難する。そのワタバウティズム概念乱用者の非難をよくよく検討すると少なからぬ場合において、「じゃあ、○○はどうなんだ?」という形式だけに着目して論点ずらしの一類型であるワタバウティズムと決めつける。

 繰り返して注意をするが、ワタバウティズムはあくまでも論点ずらしの一類型である。つまり、論点ずらしの詭弁はワタバウティズムだけではないが、ワタバウティズムは必ず論点ずらしの詭弁なのだ。したがって、論点ずらしではない言説に対してワタバウティズムとのレッテルを貼るのは間違っている。ワタバウティズムという詭弁の本質は「論点ずらし」にあるのであって『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式にあるのではない。そこは勘違いしてはいけない事だ。

 だが、ワタバウティズム概念乱用者は意識的か無意識的かは不明だが、その勘違いをご都合主義的に利用する。自ら都合よく勘違いするのか、相手の勘違いに付け込んでいるのかは判然としないが、「論点ずらしをしていない『じゃあ、○○はどうなんだ?』という形式の言説=非ワタバウティズム言説」に対して、その外見的特徴である形式からワタバウティズムのレッテルを貼るのだ。そして、その自分が貼り付けたレッテルに基づいて、その非ワタバウティズム言説に対して「それは論点ずらしだ!」と言い出すのである。

 このワタバウティズム概念乱用者の行動を「卍(まんじ)を見て早合点する欧米人」の譬え話で説明しよう。

 「卍(まんじ)のマーク」は日本においては仏教関連のマークである。とりわけ、地図では寺院を示すマークをして用いられている。だが、この卍のマークはハーケンクロイツにとても似ている。逆マンジを45度傾ければハーケンクロイツになる。ハーケンクロイツはナチスが象徴として用いたマークなので現在では差別的なナチズムのマークとして理解されている。そういった状況において、欧米人が卍とハーケンクロイツの類似性だけから「仏教寺院に集まる人間は差別主義者だ!」と騒ぎだしたら、オカシイのは騒いでいる欧米人の方である。卍の外見だけから勝手にナチズムとレッテルを貼って、その自分が貼り付けたレッテルに基づいて寺院に集まっている人の内実関係なしに差別主義者と騒ぐことは、明らかに間違っている。

 この勘違いした欧米人の非難と、「じゃあ、○○はどうなんだ?」という形式の非ワタバウティズム言説に対してワタバウティズム概念乱用者が行う「その言説はワタバウティズムだ!」との非難は、同様の構造を持っている。早合点した欧米人が卍のマークをみてナチズムのレッテルを貼って仏教関係者に対して差別主義者と非難することが間違っているように、ワタバウティズム概念乱用者の非難も間違った非難なのだ。つまり、内実を検討することなく外見からレッテルを貼りつけて、自分が貼り付けたレッテルが持つ意味から非難することが妥当であることはあり得ないのだ。

 ワタバウティズムに関して、以下のことを強く意識しておいて欲しい。

 ワタバウティズムは、その言説の形式によって非難されるのではなく、「論点ずらし」という内実があるからこそ非難されるべき詭弁なのである。


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