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小島慶子のエッセイ「『男とか女とかなんて気にしない』……自称“女性差別をしない”人に出会ったら」への批判

一言感想

 相変わらずの小島慶子氏の男性悪玉論に基づくエッセイ。安定のダブルスタンダード全開。

フェミニスト自身はエッセイの提言に従えるのか?

誰にでも、死角はあります。人と話していて、ああまたその話か、何でそんなに気にするのかな、と思ったときは、自分の死角に気づくチャンスです。なぜその人は、気にしないではいられないのだろう? その問いが、建設的な会話の糸口になるかもしれません。

小島慶子「男とか女とかなんて気にしない」……自称“女性差別をしない”人に出会ったら
最終更新:12/31(土) 20:50
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 実に素晴らしい提言だ。全くその通りであり、反対する人などいないであろうご意見だ。ただし、提言の対象は男女双方であること、かつ意見を聞いたフェミニスト達もまた提言に従うとの留保条件を付けた上で評価する。ただ、残念ながらこれまでのフェミニスト達の振舞からこの提言の価値を信じることが私には出来ない。試しに、以下の鍵括弧の話をフェミニストに語り掛けた状況を想像しよう。

 「労災での事故が偶にTVニュースに流れるけど死亡者氏名は殆ど男性だよね。女性のあなたはそれを気にしたことある?更に言えば、男ばっかりが命の危険のある3Kの仕事に従事していることはどう思う?」
※TVで労災のニュースが流れたとき実感してください

 「自殺率でみると男性は女性の2倍ぐらいあるんだよね。でも、自殺防止ポスターのモチーフは圧倒的に悩んでいる女性なんだよね。男は女の2倍も自殺しているのにさ。可哀そうな存在は女性と思われていて、男性はあまりそうは思ってもらえないんだよね」
※実際に自殺防止ポスターの画像検索して確認してください

 「ジェンダーギャップ概念は字義通りにみれば男女で社会的にギャップがある事全般を指す概念のハズだよね?つまり、本来は女性不利な場合だけでなく男性不利なギャップも指す用語だよね。でも小島慶子氏のエッセイをはじめとしてとしてこの言葉が使われるとき男性不利なギャップの話をすることが殆どないよね?どうして、いつもいつも『可哀そうな存在は女性』という意識でジェンダーギャップが語られるんだろうね」

 「小島氏が『同じ仕事をした場合でも女性の収入は男性の75%ほどにしかならないのはなぜなのか』と言っているけど、同一労働で同一時間働いているのに女性は男性の75%の単価になるってそれホントの話なの?『データで見てみましょう』なんて言っているんだから、同一労働同一時間の単価が男女で違う明確なエビデンスを示して欲しいんだけど。小島氏が参照している2021年社会生活基本調査で仕事の状況をみたら労働時間に関して男性387分で女性282分じゃないか。男性の労働時間を100%としたら女性の労働時間は72.87%だよ。単純に労働時間に比例した収入になっているだけの話を単価が違うと勘違いしているんじゃないの?もし労働時間の違いで生まれた収入差を女性差別というなら、ハードワークできることで男性は楽をしていると決めつけてることになって噴飯物なんだけど。まあ、ハードワークしたい人は男女問わず居るだろうし、したくない人も男女問わずにいる。ハードワークしたい女性からみれば男性の状況は羨ましいのかもしれないけど、ハードワークなんてしたくない男性からすると女性の状況のほうがよっぽど羨ましい。結局、男性を羨ましがっている女性の状況だけを気にして、女性を羨ましがっている男性の状況を小島氏が気にしてないだけだよね」

 はてさて、以上のような男性差別の話をしたときに「ああまたその話か、何でそんなに気にするのかな」とフェミニストが感じた場合に自分の死角に気づくチャンスと捉えて「なぜその人は、気にしないではいられないのだろう?」と自問して建設的な会話の糸口にするなどという奇跡が当然のように起こることを私は信じることが出来ない。


フェミニスト自身が守ってもいない原則を男性に押し付ける

 男性差別の話をすると、脊髄反射で「女だってしんどいんだけど!」と返されることがあるが、女のしんどさは男性差別に無頓着であっていいことの理由にはならない。少なくとも小島氏を信奉する女性は男性差別に無頓着であることの免罪符に「女だってしんどい」を使えない。なぜなら小島氏が以下のように主張しているからである。

こういう話をすると、脊髄反射で「男だってしんどいんだぞ!」と返されることがあるのですが、男のしんどさは女性差別に無頓着であっていいことの理由にはなりません

同上

 上記の引用文は「自らの性別への別個の性差別の存在を理由にして異性への性差別の理解・解消を拒否してならない」というジェンダー原則を主張していると言える。したがって、男のしんどさを理由にして女性差別に無頓着でいられないのと同様に、女のしんどさを理由にして男性差別に無頓着ではいられない。

 さて、この普遍化したジェンダー原則をフェミニスト達が一方の性別だけに紐づけずに遵守するならば、当該ジェンダー原則の内容自体は妥当なものなので原則遵守要求に異議を唱えない。だが、ご都合主義的に一方の性別にだけこのジェンダー原則を紐づけて「男のしんどさは女性差別に無頓着であっていいことの理由にならないけど、女のしんどさは男性差別に無頓着であっていいことの理由になる」というダブルスタンダードの誹りを避け得ない考え方に基づいてフェミニスト達は行動する。このフェミニスト達の振舞によって、小島氏が示したジェンダー原則は無価値なものになる。

 なぜなら「自らの性別への別個の性差別の存在を理由にして異性への性差別の理解・解消を拒否してならない」というジェンダー原則なんてフェミニストは守らないし、フェミニスト自身が守ってもいない原則を男性だけが遵守する義務など道義的に存在しない。したがって誰にも遵守されない原則など原則としての態をなしていないため無価値になってしまうのだ。


小島氏自身が「自分は男か女かなんて気にしない」「性差別したりしない」と安易に言わないでほしい

女性差別という現実を“気にし続ける”ことです。そうすれば、周囲は「ああ、あの人は差別をしない人だ」とわかるでしょう。いやそんなのめんどくさいよと思う人は「自分は男か女かなんて気にしない」「女性を差別したりしない」と安易に言わないでほしい。言ったらむしろ「その話はしないでね」という意味しか伝わらない

同上

 小島氏は男性諸氏に上記の呼びかけをしている。つまり、行動に規定される性差別についてのあるべき自己認識とその表明の在り方を男性に対して女性が注意している文章が引用文だ。したがって、これが逆に男性が女性に注意すると以下のようになる。

 男性差別という現実を“気にし続ける”ことです。そうすれば、周囲は「ああ、あの人は差別をしない人だ」とわかるでしょう。いやそんなのめんどくさいよと思う人は「自分は男か女かなんて気にしない」「男性を差別したりしない」と安易に言わないでほしい。言ったらむしろ「その話はしないでね」という意味しか伝わらない

 はてさて、小島氏の振舞はどうであろうか。管見の限りでは彼女が男性差別を中心に据えて議論を提起したことはない。当該エッセイがそうであるように女性差別を語りたいがために男性差別が登場することはあるがそれは只の飾り以上の意味は無い。つまり彼女にとって男性差別など眼中にない。そのことを前提として彼女自身が注意する「あるべき自己認識とその表明」に従えば彼女は「自分は男か女かなんて気にしない」「男性を差別したりしない」と安易に言わない筈である。ところがエッセイをみれば以下の記述がある。

私も大黒柱をやってみて初めて、男性の生き方の選択肢の少なさや経済的な重圧を想像することができました。息子たちにもそんなふうには生きてほしくはありません。

同上

 上記で明らかになるのは男性差別の一端を体験して多少理解したので自分の息子はそこを避けて生きてほしいとの小島氏の願望だ。すなわち男性差別に呻吟している世の中の男性はどうでもよくて、自分の息子だけが男性差別から無縁であれば良しとする態度である。社会の男性差別を解消することによって彼女の息子が男性差別を体験しなくなる方向の期待ではなく、男性差別自体は放置したまま息子個人が差別されないようにするライフハックの実行を息子に期待しているだけである。

 結局のところ、異性への性差別に注意を払い発言し解消に努力すべきと小島氏は主張するものの自身は異性への性差別には興味関心が殆どない。彼女自身が提唱した規範に基づけば、彼女は「いやそんなのめんどくさいよと思う人」なのであるから「自分は男か女かなんて気にしない」「男性を差別したりしない」と安易に言わないでほしいものだ。

 また、異性への性差別に注意を払い発言し解消に努力すべきとの規範に関しては提唱者自身が守ってもいない規範に従う道義的責任が何処にあろうか。


さいごに、男性悪玉論について

 小島氏のエッセイは基本的に男性悪玉論の世界観が貫徹している。そのことが分かる記述が当該エッセイにも登場する。

今ある女性差別をなくすために発言し、努力する。女性たちの話を聞いて
男性優位社会でどのような不利益を受けているのか、またどのような振る舞いを強いられているのかを知る。

同上

 文中の「男性優位社会」というマジックワードのバカバカしさについて批判しておこう。

 まず、小島氏は男性優位社会などと主張するが、男性がどのような不利益を受けているのか、またどのような振る舞いを強いられているのかを正確に女性は知っているのか、また女性がどのような利益を得ているか、またどのような振舞を許されているのかの自己認識があるのかかなり疑問に感じる。

 フェミニストはしばしば男性は男性特権(あるいは男が履いている下駄)に無自覚だと主張し、同時に男性は女性の不利益に無関心かつ理解しないと非難する。とはいえ、この主張に根拠が無いわけはない。自分が得ているものは当然と感じる・自分が被らない不利益には関心が持てないという心理機序があるからだ。また同時に、自分が被っている不利益は明確に自覚できる・自分が得ていない他者の利益は痛烈な羨望の念とともに認識できる心理機序がある。

 フェミニストの男性特権の議論にバカバカしさを感じるのは、男性と同様に女性にも「自分が得ているものは当然と感じる・自分が被らない不利益には関心が持てないという心理機序」が働いていることを何故無視するのかという点にある。人間という同じ生物種なんだから心理機序に大した違いはない。男性が自身の特権への自覚が難しいように女性もまた自身の特権への自覚が難しい。また、異性の不利益の認識に関して、男性が女性の不利益の認識が難しいように女性も男性の不利益の認識が難しい。

 人間という生物種の心理機序の赴くまま感覚的議論で特権-不利益を論じ始めたならば、男性側議論は「女性の不利益には目が届かず女性特権だけに目が向き、また男性特権には目が届かず男性の不利益だけ自覚する」形の議論となり、また女性側議論は「男性の不利益には目が届かず男性特権だけに目が向き、また女性特権には目が届かず女性の不利益だけ自覚する」形の議論になる。

 本来ならば両サイドの立場から議論がなされていくことでお互いの認識が修正されていくハズであるのに、フェミニストは女性側議論しか正しくないと天下り的に判断して男性側と議論すらしなくなる。そうなればフェミニストの目には男性特権と女性の不利益しか映らなくなる。そのような偏った像からは現実社会が男性優位社会であるとしか認識できず、男性が諸悪の根源であるという世界観を生み出していく。そしてそんな歪んだ世界観からではマトモな知見など出るわけがない。

 そもそも、フェミニストは男女が存在において平等であるとはこれっぽちも考えていない。男性に生じていることは女性でもあり得るのではないか、あるいは女性に生じていることは男性でもあり得るのではないかと考える構えがない。大抵の場合にフェミニストは先験的に男女の非対称性を前提に議論し始める。男女の非対称性は経験的な事象であるにもかかわらず、先験的に男女の非対称性をおくことはセクシズムに他ならない。


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