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奢り奢られ論争:男女逆転カップルのモヤモヤ

 奢り奢られ論争における「(大抵の場合に)男性が感じる違和感を女性が感じた状況」について書かれたTwitter上でプチ炎上した投稿がある。この投稿内容がなかなかに面白い(※タイトルにおける"男女逆転"の言葉は既存の性役割についての皮肉)。

 直接のツリーは以下である。

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri
彼氏よりお給料が倍額あったんやけど、それを知った彼氏が「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」と言ってきてすんごい辛い気持ち…そして難しい問題…結婚しているわけではないし、私の倍量食べてるし、何より私はその給料が貰える企業に入れるようにめちゃくちゃ努力した。

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月25日
割り勘でも損してるけど、彼氏の家の事とか考えて何も言ってなかった。
私が自分であれこれと就活してる時彼氏はエージェントに任せっきりの就活してた。
でもなあ、好きなら払ってあげるべきなのかなあとか色々考えて、いやこんな事言うてくる人が彼氏なの嫌だなぁとかも思って、うーん

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月25日
※大体お互いの家にいるので、2人で自炊の時は材料費割り勘しようねーていうてる、今の所してないけど(私が払う方が多くてレシートをお互い貯めてる)

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri
奢られたがる女が逆になったらこんな事言ってるwって晒されてるけど、ん〜、人の価値観は知らないけど、そもそも私は奢られなくてもいい派だし今も彼氏よりかなり多く払ってるよ〜。それで別に良かったけど「払って」と明言されたのにモヤりしてるんだよ。男女がどうでなく明示的催促が嫌なんだよお〜

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 Twitterの投稿 2023/4/25 (強調引用者)

 何が面白いのかといえば、奢り奢られ論争でよく持ち出される「収入が多い方が奢る」という正当化理由もまた、義務的に奢る側に女性が立ったならば「オカシイのではないか」と感じて反論しようとすることである。

 この事例は、奢り奢られ論争において、いかにジェンダー規範が暗黙の前提なのかを示している。また同時に、デートでの支払いのシーンにおいて如何なる女性特権があるのかも明らかにしている。


女性特権の論点①規範の拘束力からの自由

女性が持つ「婚姻関係に無い異性に奢る義務」からの自由

 ひつじ🐏 @23卒/外資1年目氏(以後、ひつじ氏と略称する)が「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」と言われて持ち出した1つ目の反論ポイントは「結婚しているわけではない」である。このときなぜ、ひつじ氏は自分が奢る義務に関して婚姻関係の有無を持ち出したかについてまず考えていこう。

 日本社会において夫婦は基本的に利益共同体になる。言い換えれば、収入の入口は夫だろうが妻だろうが家計という一つのサイフに収まるとの意識がある。したがって、(日本の夫婦に関しては)自分の所得は家計所得であるから家族の支出を自分の所得から供出したとしても家計から出したという認識になる。

 しかし、結婚していなければ当然それぞれのサイフは別である。

 「結婚しているわけではない」という反論は、「なぜサイフが別なのに相手の分を払わなきゃならないのか?」という反論である。そして、この反論には「自分の分は自分で支払うべき」という前提がある。

 さて、奢り奢られ論争は夫婦でない男女についての論争である。初めてのデート代、普段のデート代といったものの金銭の支払いが議論対象だ。つまり、奢り奢られ論争の舞台は、そもそもが自分の分は自分で支払うべきという一般原則が当然には成立していない婚姻関係にない男女のデートが舞台なのである。

 「結婚していないのに彼氏になぜ奢らねばならないのか?」とのひつじ氏が疑問を抱けたのは、彼女に婚姻関係に無い異性に奢らねばならない義務に関する内心の負荷が彼氏から言われるまで一切なかったからだ(もちろん法律上の義務などではなく慣習的規範からの義務)。内心においても背負っていなかった義務を突然に外部(=彼氏)から押し付けられて「え、なんで?」という気持ちなっている。

 奢り奢られ論争において、「結婚しているわけではない」に類する男性の反論は殆ど無い。なぜなら、それが反論として扱ってもらえないことを承知しているからだ。奢り奢られ論争はそもそも婚姻関係に無い異性への奢り奢られの問題であって、議論の前提において相手とは結婚していないのだ。つまり「結婚してないよね?」で片付くなら奢り奢られ論争はホットな話題になっていない。この奢り奢られ論争自体が、男性が婚姻関係に無い異性に奢らねばならない義務に従うにせよ、抗うにせよ、その義務を課してくる慣習的規範から男性が自由ではないことを示している。

 上記の構造を「奢らなきゃいけないのはオカシイ」という立場の反論の構造で示そう。

 (ひつじ氏を含む)日本女性の反論は、「自分の分は自分で支払うべきなんだからオカシイよね?」と、論理構造が1段階で済んでいる。

 一方、日本男性の反論は「(1)ジェンダー平等って言っているんだから、(2)自分の分は自分で払うべきだよね?」と、論理構造は2段階必要だ。

 つまり、「自分の分は自分で払う」という一般原則から奢るべきという異性の要求を拒絶できる立場の女性と、ジェンダー平等原則を主張した上で先の一般原則を適用して奢るべきという異性の要求を拒絶しなければならない立場の男性、という性差がある。つまり、「ジェンダーは平等でなければいけないはずだ!」とわざわざ議論の最初に宣言しなければならない程に異性に奢らねばならない義務を課してくるジェンダー規範に男性は縛られている。一方で女性はそんな宣言が必要でない程に奢る義務から自由であることを意味する。この女性の自由こそが恋愛における女性特権の一つである。

 「男なんだから奢れ」という明白なジェンダー規範からジェンダーロールを隠蔽した形(※日本社会の風潮として相手の男性に期待する要素に経済力がある点に注意)の「収入が多いんだから奢れ」にアップデートされた規範に関しても呪縛の強さは男女で全く異なる。

 一見ジェンダー中立的に見える「収入が多い方がデートで奢れ」との規範の拘束力に関して、当該規範が男性に向かって主張されたとき、規範のジェンダー中立的な外見によって男性の反論には正当性が無いとされてしまう。一方、当該規範が女性に向かって主張されたときの女性の反論には正当性が与えられる。

 具体的に考えよう。 

 「収入が多い方がデートで奢れ!」と言われたとき、男性が「自分の分は自分で払うべき」と拒否したら、奢るべきとされた規範のジェンダー中立性を根拠にして「男だから奢れといっているわけじゃないのにケチ臭い奴」と侮蔑するだろう。一方で、女性が「自分の分は自分で払うべき」と拒否したら、奢るべきとされた規範が女性であっても適用されるべきジェンダー中立的な規範でも「確かに自分の分は自分で払うべきだよね」と一般原則(=自分の分は自分で払う)の妥当性が重視されて、「収入が多い方がデートで奢る」という規範の、男性側が拒否したときには非常に重視されたジェンダー中立性はさしたる意味も持たず、女性の拒否は正当化される。

 またひつじ氏の反論理由「結婚しているわけでない」に変えてみても同様だ。

 「収入が多い方がデートで奢れ!」と言われたとき、男性が「結婚しているわけでない」と拒否したら、婚姻関係に無い異性に奢るべきとされた理由がジェンダー中立的な規範に基づくことから「男性役割の押しつけでないのに拒否するのか」として非難されよう。一方、女性が「結婚しているわけでない」と拒否したら、「確かに、まだ結婚してないもんね。出したければ出せばいいけど、出さなきゃいけない訳じゃない」と一般原則「サイフが別なら支払いも別(=自分の分は自分で払う)」に基づく拒否に賛同が集まるだろう。

 以上で示した奢り奢られ行為に関する規範の拘束力の性差もまた恋愛における女性特権なのだ。


改姓問題での男性特権と奢り奢られ問題での女性特権の同型性

 「奢り奢られ問題での奢る義務からの自由は女性特権でない」と反論するフェミニストが居るかもしれない。もちろん、そういうスタンスをとっても構わない。しかし、規範の拘束力の性差に反論したフェミニストは改姓問題に関する男性特権についても否定すべきである。なぜなら、建前ではジェンダー中立的な問題であっても慣習的規範においてはジェンダー差が存在する場合に一方の側に心理的負荷があり他方にはその免除特権がある問題としてこの二つの問題は同種の問題だからだ。

 この「改姓問題」と「デートで収入が多い方が奢る問題」は、建前上はジェンダー中立的である。

 日本の法制度下において結婚で苗字を変えることに関する民法上の男女の立場は平等である。民法の条文は夫と妻のどちらの姓を夫婦の姓に選択してもよいので建前としての法制度はジェンダー中立的である。これと同様に、建前上の収入が多い方が奢るという規範もまた同様にジェンダー中立的である。収入が多いのであれば奢る者の性別は男女どちらでもよいからだ。

 一方で、慣習的規範はジェンダー不平等である。それぞれ「結婚では女性が苗字を変えるべき」「デートでは男性が奢るべき」というものだからだ。

 この建前上のジェンダー平等と慣習的規範のジェンダー不平等が齎す心理的負荷と免除特権を具体的にみていこう。

 「結婚したら苗字変えなきゃなのかな?」という女性の悩みは、「デートしたら奢らなきゃなのかな?」という男性の悩みとパラレルな関係である。局面を変えて言えば、内心では「本当は苗字はそのままでいたいんだけどなぁ」と思いつつも夫の苗字に変える女性の存在は、内心では「支払は自分の分だけにしたいなぁ」と思いつつもデート代を奢る男性の存在と同種なのだと言える。このような心理的負荷が、改姓問題では女性に、奢り奢られ問題では男性に課せられる。

 また免除特権の視点からいえば、結婚で苗字を変える立場になった男性の「え?俺が苗字変えるの?」という驚きと、デートで奢る立場になった女性の「え?私が奢るの?」という驚きは同種のものだと言える(※ひつじ氏が自身の感情として「すんごい辛い気持ち」と表現しているところからその驚きの大きさが窺える。もちろん男性でも「奢られて当然というヤツには奢りたくねえなぁ」と嫌な気持ちになるが、大多数の男性はある種の驚愕によって生まれる「すんごい辛い」という強い感情にはならないだろう)。両者の驚きは慣習的規範において心理的負荷が免除されている側が不意を打たれて感じるものだ。もし仮に「苗字変えなきゃなのかな?」「奢らなきゃなのかな?」と事前に悩んだことがあれば驚かない。両者の驚愕はこれまでそういった心理的負荷とは無縁だったからこその驚愕なのだ。

 建前上はジェンダー平等であるシーンにおいて慣習的規範の拘束力でジェンダー差が存在している場合がある。そんなとき、一方の性別には心理的負荷を課されるが、他方の性別はそんな心理的負荷とは無縁でいられる免除特権がある。また、議論になった場合に一方の性別は男女平等原則を確認しなければならないが、他方の性別はその確認義務を免除されている。

 「デートでは収入が多い方が奢る」という建前上のジェンダー平等なシーンにおいて、ひつじ氏が「結婚しているわけではない」と反発したのは、慣習的規範から「(結婚前の)デートで奢らなきゃ」という心理的負荷と無縁でいられる女性特権を持っていたからである。また、議論において「結婚していない→サイフが別→自分の分は自分で払う」という一般的な論点で議論する前にジェンダー平等原則をわざわざ確認しなくともよい立場にある女性特権もある。

 繰り返すがフェミニストは上記の女性特権の概念を否定しても構わない。

 ただしそのときは、フェミニストが日本社会の男尊女卑構造として糾弾している改姓問題に関する男性特権についての主張は、本稿の奢り奢られ問題に関する女性特権についての主張と同様の理屈なのだから、「改姓問題での男性特権の糾弾は事実無根の理不尽な糾弾でした」と反省すべきである。


女性特権の論点②交換原則の例外

 ひつじ氏が「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」と言われて持ち出した2つ目の反論ポイントが「何より私はその給料が貰える企業に入れるようにめちゃくちゃ努力した」である。

 この観点でのひつじ氏の考えが表れている関連ツイートを別のツイートも併せて見てみよう。

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月25日
彼氏よりお給料が倍額あったんやけど、それを知った彼氏が「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」と言ってきてすんごい辛い気持ち…そして難しい問題…結婚しているわけではないし、私の倍量食べてるし、何より私はその給料が貰える企業に入れるようにめちゃくちゃ努力した

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月25日
割り勘でも損してるけど、彼氏の家の事とか考えて何も言ってなかった。
私が自分であれこれと就活してる時彼氏はエージェントに任せっきりの就活してた
でもなあ、好きなら払ってあげるべきなのかなあとか色々考えて、いやこんな事言うてくる人が彼氏なの嫌だなぁとかも思って、うーん

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 Twitterの投稿 2023/4/25 (強調引用者)再掲

ヘムヘム@倍率ニ百倍の勝者|公務員面接塾|模擬集団討論開催|都庁・国総・特別区・地上・裁事最終合格 @GD_hemuhemu 4月26日
仮に今回の話と性別が逆(つまり男性側の給料が倍だった)場合に、倍額払ってほしいと女性に言われたら…男性って辛い気持ちになるんですかね❔

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月26日
自分の労働や今までの努力の対価として頂いたお金なのに、その使い道を指定されるっていう観点では快くはないと思いますけどねえ…
女側が倍額払うよって言ってもらえるように家事頑張ったり支えるの頑張る!って思ってるのは良いけど、口に出して「払え」は辛いんじゃないかなあ

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目ほか Twitterの投稿 2023/4/26 (強調引用者)

 太字で強調した論点となる部分を抜き出そう。

  • 何より私はその給料が貰える企業に入れるようにめちゃくちゃ努力した

  • 私が自分であれこれと就活してる時彼氏はエージェントに任せっきりの就活してた

  • 自分の労働や今までの努力の対価として頂いたお金なのに、その使い道を指定されるっていう観点では快くはない

 この論点を出してきたときのひつじ氏の心象風景を以下の譬えで示そう。

譬え:時給1000円でAさんは8時間、Bさんは4時間働いた。アルバイト代はそれぞれAさんは8000円、Bさんは4000円になった。アルバイト後に「一緒にご飯食べにいこうよ。因みに、Aさんは私の2倍のバイト代貰ったんでしょ?収入が多い方が奢るべきだから、Aさん奢ってね」とBさんがAさんに言った。

 上の譬えにおいて「なぜバイト代の金額という結果だけみて労働時間の差を無視するんだ?」とAさんはBさんに対して立腹するだろう。ひつじ氏の当論点の核心は基本的にはこの譬えでAさんが立腹した構造なのである。

 また、譬えの一部を変えて考えよう。

 AさんとBさんのアルバイト先は異なり、Aさんは事前準備の必要なアルバイト先(教え子の得意不得意・理解や習得ができていない点や志望校の出題傾向の事前把握、課題プリントやテスト作成が必要な家庭教師など)、Bさんは事前準備など要らないアルバイト先(居酒屋のホール係など)であったとしよう。このときAさんは時給に反映されない事前準備時間4時間かけた上で時給2000円で4時間アルバイトをしてアルバイト代8000円を獲得し、Bさんは時給1000円で4時間アルバイトをしてアルバイト代4000円を獲得したとする。またもや「一緒にご飯食べにいこうよ。因みに、Aさんは私の2倍のバイト代貰ったんでしょ?収入が多い方が奢るべきだから、Aさん奢ってね」とBさんがAさんに対して言ったとしよう。

 この場合もまた「なぜバイト代の金額だけみて事前準備に費やした努力の差を無視するんだ?」とAさんはBさんに対して立腹するだろう。この場合については、形式上のアルバイト時間はAさんとBさんは同じである。しかし、アルバイト代獲得の為にBさんには無い事前の努力をAさんはしている。実質的にはアルバイトに2倍の時間を使った結果、2倍のアルバイト代になっているのだ。つまり、改変後の譬えでAさんが立腹した構造は改変前の譬えの構造と基礎は変わっていない。

 「所得獲得の努力が無視されて、結果としての収入の多寡だけで判断されるのはオカシイ!」という主旨のひつじ氏の論点は、基本的に上記の譬えで示した構造を持っている。つまり、「ある主体が時間や労力といったものと交換して得た対価としての収入を、なぜ何かと交換することなく別の主体が要求することができるのだろうか?」という話なのだ。

 この論点は交換の原則に基づく異議申し立てなのだ。

 我々の社会は一般的には等価交換が原則である。もちろん、原則という概念は「原則-例外」というセットで考えるものであるので、この我々の社会における交換の原則にも例外が存在する。例外の典型例としては税制がある。税はマクロ的(=社会全体の視点)には税収に見合った政府支出という形の対応関係があるが、ミクロ的(=個人の視点)には徴収された税額と享受できる行政サービスの間に対応関係はない。また別の例でいえば扶養行為である。親が子供に対してなんらかの支出や労力を払ったとしても、子供が対価を払わねばならない訳ではない(もちろん、親に感謝するといった感情の対価を子供は提供することはあるが、親に感謝しない子供を扶養しなくてもよいとはならない)。ともあれ、これらの交換の原則の例外は、なんらかの例外となるだけの十分な理由があって例外とされている。

 ここから「デート代の支払い」は交換の原則の例外とするだけの十分な理由があるのか?といった疑問が出てくる。この疑問は「夫婦でもなければ家族でもない個人同士の関係において、生命の危険といった切迫した事情もないのに、他人に対して交換の原則の例外として対価なしに何かを要求する(法律上ではなく道義上の)権利があるのか?」とも言い換えることもできる。

 ここで注意をしておくが、法律上の所有権を有しない側の道義上の要求権が議論範囲である。法律上の所有権を有する側であればそれは贈与であって、それは一般的に所有権に含まれる、自発的意思による所有物に対する処分権の行使になる。したがって、贈与は消費や放棄と同様の所有権の行使であるので交換の原則の例外となる十分な理由がある。だが、他人にデート代を奢らせる行為は、当然ながら所有権の行使のような交換の原則の例外として十分な理由となる法律上の理屈などない。したがって、デート代の支払いが交換の原則からの例外となる条件の議論は、デート代の支払いの原資となる金銭の所有権を有しない側の道義的な要求権が議論範囲になるのである。

 この問題を「釣ってきた魚」を譬えに使って説明しよう。

ある人が海で魚を釣ってきたとき

(1)魚を持っていない人に「この魚をあげる」と自発的に渡す場合
(2)魚を持っていない人から「その魚を寄越せ」と言われて渡す場合

の二つの場合は全く異なる問題である。

 海で魚を釣ってきた人は所有する魚を食べて(消費)もよいし、捨てて(放棄)もよいし、リンゴと交換してもよいし、誰かにあげて(贈与)もよいし、もちろん保有したままでもよい。どのように釣った魚を処分しても自由である。したがって贈与は所有する魚の処分の一形態にすぎない。しかし、誰かから「オマエの持っている魚を寄越せ」と要求される話は、所有する魚の処分の形態の話とは全く別問題なのだ。

 ひつじ氏もまたこれが別問題であることをツイートしている。彼女がそんなツイートをしていることは、義務的に奢る側に立てばこの問題は当然に違和感を覚える問題であることを示す。以下に、そのツイートを引用しよう。先だって引用したツイート2つと新たに引用する1つの合計3つのツイートを示す。

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri
奢られたがる女が逆になったらこんな事言ってるwって晒されてるけど、ん〜、人の価値観は知らないけど、そもそも私は奢られなくてもいい派だし今も彼氏よりかなり多く払ってるよ〜。それで別に良かったけど「払って」と明言されたのにモヤりしてるんだよ。男女がどうでなく明示的催促が嫌なんだよお〜

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月26日
自分の労働や今までの努力の対価として頂いたお金なのに、その使い道を指定されるっていう観点では快くはないと思いますけどねえ…
女側が倍額払うよって言ってもらえるように家事頑張ったり支えるの頑張る!って思ってるのは良いけど、口に出して「払え」は辛いんじゃないかなあ

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 @nurui_nemuri 4月26日
男女逆だったら…ていう引リツが飛んできますが、私は逆でも「払ってよ」とは言わない(自分のお金は自分のために使って欲しい)。その上で、けど給料多い側は愛情があるから多めに払っても何も言わないよ、がイイナア。
別にそうしてもらわなくても何とも思わない、人のお金の使い道指定しようと思わん

ひつじ🐏 @23卒/外資1年目 Twitterの投稿 2023/4/26 (強調引用者) 

 「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範を前提とすると、収入が多い側が奢りたくなくともデート代の支払いは交換原則の例外となる。もちろん、収入が多い側が奢りたくて奢っている場合も交換原則の例外なのだが、それは先に示したように贈与なのであり所有権の行使による例外に過ぎない。しかし、奢れれる側からの要求によって奢りたくないのに収入が多い側が奢らされている場合は「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範によって交換原則の例外になっているのだ。

 ジェンダー平等の正義が声高に叫ばれる風潮のなか「『デート代は男性が奢るべき』ではなく『デート代は収入が多い側が奢るべき』という規範だから妥当でしょう?」といった形で、大多数の場合に奢る立場にいる男性の不満や疑問を無視して、奢りたいから奢るという自発的な場合だけでなく、奢りたくなくても奢るという義務的な場合も交換原則の例外とされている。

 しかし、いざ「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範によって義務的に奢る側に女性が立てば、デートの支払いが交換原則の例外になっていることに対して強烈な違和感を覚えている。例えば、女性であるひつじ氏が自身の所得獲得の努力を持ち出して「なぜデート代を奢る義務は結果としての収入の大きさだけで判断されるのか?」との内容の反論を行ったのは、「デート代は収入が多い側が奢るべき」というローカル・ルールが世間一般の常識からズレていて妥当ではないと女性であるひつじ氏が感じたからである。

 「男性=奢る側、女性=奢られる側」という従来からの関係が逆転して「男性=奢られる側、女性=奢る側」になってはじめて「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範をめぐる様々なオカシさに女性は気づく。そして、そのオカシさに直面した女性からデート代の支払いのシーンにおいて交換原則の例外となっているのは道理に合っていないとの声が出てくる。彼女らは少なくとも自発的な所有権の行使(=自発的な贈与)以外でデートの支払いを交換原則の例外とすることに疑問を呈するのだ。

 「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範は、一見するとジェンダー中立的だ。この見かけのジェンダー中立性によって一般社会における交換原則を無視する当該規範のデタラメさが隠蔽されていたのだ。

 なぜこのデタラメさが隠蔽されてきたのかといえば、女性の上方婚傾向からも明らかな女性の"相手の経済力"への選好、また傍証として夫婦の年齢差が挙げられる男性の"相手の若さ"への選好(※一般的に年齢が上の方が所得も高い)によって、「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範が実質的には慣習的なジェンダー規範と同じ「デート代は男性が奢るべき」という規範になっていたからである。つまり、大抵のカップルにおいて「男性=奢る側、女性=奢られる側」という従来からの関係が変化しなかったため、違和感が生じなかったのだ。

 実質的には旧来の「デート代は男性が奢るべき」という内容と変わりがない「デート代は収入が多い方が奢るべき」という規範は、昨今の社会においてしきりに強調されるジェンダー平等の価値観に適合しているかのような見かけのジェンダー中立性によって、あたかも旧弊の性役割の押しつけを乗り越えた規範であるかのような外見を獲得した。その外見によって妥当な規範であると錯覚させ、そして、その規範の妥当性についての錯覚から「『デート代の支払い』は交換原則の例外である」との認識が奢る立場の男性と奢られる立場の女性の間に生まれたのだ。

 当然ながら錯覚に基づく認識は間違っている。このことについてもう少し深く考えてみよう。

 性役割が明示的な「デート代は男が奢るべき」という旧来のジェンダー規範は、他の様々な性役割の網目の中で機能していた。この旧来の性役割の網目の総体が、デート代の支払いが交換原則の例外となることの妥当性を、その総体の中の一部として旧来の規範に与えていた。しかし、この旧来の規範のジェンダー非対称性は(当たり前だが)明確であり、これからの社会で追求すべきジェンダー平等という価値から性役割の固定化に繋がるものとして旧来の規範は否定されるべきものとなった。

 そこで「デート代は男が奢るべき」という旧来の規範から実質的には変化しないように、新たに採用すべき規範にジェンダー中立的な装いがこらされたのだ。それが「デート代は収入が多い側が奢るべき」である。このジェンダー中立的な外見を与えられた、実質的には旧来の内容と変化のない新たな規範は、その実質的な内容の変化の無さからデート代の支払いを交換原則の例外としていた旧来の規範からその機能を引き継ぐ。

 しかし、「デート代は男が奢るべき」という旧来の規範は、旧来の様々な性役割の網目の総体の一部として、デート代の支払いを交換原則の例外とする妥当性を獲得していたのである。したがって、旧来の様々な性役割の網目の総体の一部でなくなれば、実質的な内容が「デート代は男が奢るべき」という規範の、「『デートの支払い』は交換原則の例外であるとする根拠」となる性質は消滅してしまうのだ。すなわち、ジェンダー平等の価値観によって旧来の様々な性役割の網目の総体が解体されていくなか、デート代の支払いに関して男性に対して実質的に性役割を強制していた「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範はその妥当性を維持できなくなったのだ。

 このことをよく示すのが、旧来の様々な性役割の網目の総体から仮想的に切り離された男性と見做すことのできる、「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範のもとで奢るべき立場に立たされた、相手の男性より収入が多い女性の視点での、「デート代は収入が多い側が奢るべき」という規範の妥当性に対する疑義である。ジェンダー平等の観点から相手よりも収入の多い女性にも適用された「デート代は収入が多い側が奢るべき」との規範に関し、奢る側として規範の適用を受けた女性には、その規範が交換原則の例外の根拠として妥当であるとは到底感じれれなかったのだ。

 このことは男女の区別をなくしたジェンダー平等社会において、「デート代は収入が多い側が奢るべき」との規範は、デートの支払いを交換原則の例外とするだけの妥当性を持った根拠と成り得ないことを意味する。男女を入れ替えたときに規範の妥当性に疑義が生じるならば、その規範は男女で非対称なジェンダーによる負荷が存在している。ジェンダー平等社会とは、そのような男女で非対称なジェンダーによる負荷の存在を許容しない社会である。したがって、日本社会がジェンダー平等社会を目指している以上、男女で非対称なジェンダーによる負荷のある規範は、その妥当性を喪失するのだ。

 以上のことは、一見するとジェンダー中立的ではあるが実質的には「デート代は男が奢るべき」という内容となる、様々なデートの支払いに関する規範に当てはまる。カップルにおいて男性が年上であることの方がその逆よりも多い状況での「年上が奢るべき」という規範、男性がデートの企画を立てることやそもそも女性を男性が誘うことに対する期待があるなかでの「デートに誘った方が奢るべき」という規範等々は、みな同じである。

 旧来の性役割の網の目の総体によって交換原則の例外となる妥当性を獲得していた、デート代は男が奢るべきという規範から実質的な内容を変化させていないならば、いくらジェンダー中立的な外見を整えようが、新たなデート代の支払いに関する規範は、旧来の性役割の中で女性が得ていたものと同様の女性特権に基づく。更に言えば、外見上のジェンダー中立性によって単に男性から搾取するだけになった悪質性が増した女性特権であるとさえ言えるだろう。


まとめ

 ひつじ氏の一連のツイートは、デートの支払いを巡る様々な問題圏で議論されている。議論百出のなか、デート代の支払いのシーンにおける女性特権、および「デート代を奢る」という規範の中のジェンダー非対称性について本稿では取り上げた。本稿の議論のなかで以下の3点:

  • 男性と違って女性は、結婚前のデートについて義務的に奢ることから基本的に自由である

  • 男性と違って女性は、デート代負担の議論において、ジェンダー平等原則を確認せずともよい

  • 一見するとジェンダー中立的な「収入が多い方が奢る」という規範は、結局のところ、旧弊の性役割の網の目の中でしか妥当性を持たない

から生じている女性特権が、デート代の支払いの問題圏において存在していることが明らかになった。




補論

 「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」という彼氏の考え方へのひつじ氏の最初のツイートにおける反論の論点は以下の3つである。

(1)結婚しているわけではない
(2)私の倍量食べてる
(3)その給料が貰える企業に入れるようにめちゃくちゃ努力した

 この3つの論点のうち、女性特権の問題として取り上げたのは(1)(3)の論点である。

 (2)の論点は女性特権とは特に関係しないため取り上げなかった。それというのも(2)の論点は結局のところ「なぜ自分が相手の分の金銭負担をしなければいけないのか?」という問題と変わるところが無い。仮に彼氏の食事量が自分と等量であった場合に「じゃあ2人の時の食費払ってよ、俺の給料の倍あるんでしょ?」という彼氏の主張は(2)の論点での問題意識から問題でなくなるのかといえばならないだろう。

 もちろん、享受量に差異がある場合の費用負担に関する理屈が考えられないわけではない。具体的に考察しよう。

 例えば、「AとBで飲みに行ったとき、Aはビールを5杯飲んたが、Bは1杯しか飲まなかった」という場合や、「AとBがスイーツ有名店に行った。Aはモンブランとプリンを食べたが、Bはモンブラン、チーズケーキ、イチゴショート、フルーツタルト、アップルパイ、抹茶シフォンを食べた」という場合を想像すればいい。前者はその酒量からみてAがより強く飲みに行きたかったのだろうと推測でき、後者は逆にBがより強くスイーツを食べに行きたかったのだろうと推測できる。

 熱意が享受量に反映されているときは、享受量が著しく多い方が費用負担をする理屈を考えることができる。これは「著しい熱意の偏り」によって費用負担の責任が出てくるという考えだ。換言すれば「相手にはその気がなかったのに強引に付き合わせた」と言い得る場合は相手の分の費用を負担すべきだ、という理屈である。

 改めて注意をしておくが、享受量が多いほど快さは大きくなるとはいえ単に快さの量的な大小の話であれば一方が他方の分の費用負担すべきといった問題にはならない。著しい熱意の偏りによって生じる費用負担責任は「一方は十分以上の快さを感じているにもかかわらず、他方はお義理程度の快さ(=一人では絶対行かないような快さ)しか感じていない」ような場合に生じるのだ。例えば、同好の士を増やそうとしている人からプロレスファンでもないのにS席で観戦するように誘われた場合や、歌舞伎に興味がないのに一等席で観劇するように誘われたような場合である。

 因みに、初めてのことに興味本位で参加したがお互いにガックリきたような場合でも、事前の段階の熱意の差で費用負担責任が出ることもある。「つまらなかったら君の分も出すから、やってみようよ」という暗黙の了解があるなら熱意が高い方に相手の費用を負担する責任が出ることもある。

 つまり、「自分自身だけの行動ならコレにカネを出そうとは思わないなぁ」という条件を満たしており、かつ、(事前の)熱意の高さに大きな差があれば、熱意が高い方が熱意の低い方の費用を負担する理屈が考えられよう。

 とはいえ、ひつじ氏のケースはこの理屈を適用できない。単に彼氏はひつじ氏の倍量の食事を普段から摂取しているという話であって、食事の摂取量は二人の熱意の強さの偏りを反映していないからである。

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