見出し画像

テクノロジーと人間観

■時代毎の最新のテクノロジーと人間観

 我々が「人間とはどのようなものであるか」と考えるとき、身近になった最新のテクノロジーの産物を参考にしていることが多い。これは現代に限らず、新しい思想や理論が登場するとき、その新思想や理論の提唱者の人間観は当時の最先端テクノロジーの身近な産物から着想を得て、思想・理論を創り出している。しかし後代になってその思想・理論を理解しようとするとき、最新であった当時のテクノロジーの産物から着想を得ていたのかに関して忘れさられ、成果物の思想・理論だけが注目されるのが通常である。

 基本的には何から着想を得ていようが、思想・理論自体の妥当性でその思想・理論を評価すべきなので、思想・理論のヒントとなったであろう、当時の時代の先端テクノロジーの性質を考える必要など無い。とはいえ、思想・理論を理解するにあたって、どんなものから着想を得ていたのかを掴んでいた方がその思想・理論を深く理解できるように思われる。


■2020年代の人間観:ソフトウェア的人間

 2020年代になってからしばしば見受けれれる新たな人間観に、情報機器上のソフトウェアを参考にした人間観がある。

 2020年代に入ってから日本ではとりわけジェンダー論がかまびすしい。WOKE界隈の「オジサンOSで考えている」「アップデートされていない」等の表現に表れる人間観は、まさしく現在の我々が抱く代表的な最新のテクノロジーであるソフトウェアから着想を得た人間観である。トランスジェンダー問題に関しても、例えば「目的はソフトウェアの『Twitter(現X)』を使うことであってスマホやPCといったハードウェアを使うことではない」といったような我々の情報機器の利用の仕方や考え方から着想を得ている。すなわち、肉体というハードウェアではなくソフトウェアの性自認こそが本体であるという人間観によって問題として浮上してきたと言えよう。また、そういった角度がついた思想においてだけでなく、「インストールされたアプリ次第で出来ることが変わる」という見方なども、ごく一般的な事柄についての現代の我々の人間観に登場する。


■1990年代以降の人間観:パソコン的人間

 2020年代以降のような、ソフトウェアが単独で最新のテクノロジーとして受け止められる感覚は、まだそこまで一般的ではないだろう。一般的な人間観は、むしろハードウェアとソフトウェアが合わさった総体としてのコンピュータをモデルに形成されている。すなわち、身近なテクノロジーの産物であるパソコンがイメージされ、それを用いて一般的な現代人は人間観を形成しているだろう。

 さて、パソコンから着想を得た人間観においては、人間を理解する際「メモリ(記憶)とプログラムされたアルゴリズム(思考方法)に従ってプロセッサ(脳)が処理する」といった形でコンピュータの構造に対応させて人間を理解している。

 この人間観について具体的には「(あまり記憶力が良くない人に対して)アイツはメモリが少ない」「(思考や行動が手早い人に対して)積んでるプロセッサが良いんだよ」「(やってしまいがちな思考や行動に対して)そういうことが人間にはプログラムされているんだよ」等の言葉を出す人たちの人間観は、パソコンから着想を得ている。


■20世紀中葉の人間観:自動車的人間

 パソコンより遡ると、内燃機関を先端テクノロジーとする自動車が身近な先端テクノロジーの産物だろう。つまりパソコンが普及する前は、自動車をヒントに人間観を形成していることが多いように見受けれる。「燃料-エンジン-運転手」のシステムが人間像のモデルになっていることが多い。

 「ヤル気×能力×判断=パフォーマンス」といった図式で人間の活動を考えるとき、それは自動車をヒントにした人間観だ。ヤル気が燃料であり、能力がエンジンであり、判断が運転手だ。ある人間への評価を行うにあたって「モチベーションの大小、能力の高低、方向性の良し悪し」に注目する場合の人間観は、自動車からインスピレーション得ており、パソコンをヒントにした人間観とは明らかに異なる。

 パソコン的人間観では、内燃機関における燃料に当たる要素が見当たらない。つまり、「使えばなくなるエネルギー」が人間にもあるとの見方が自動車的人間観だ。ガソリンが入っている間は動くが無くなってしまえば動かなくなるという内部状況の変化が自動車的人間観にはある。一方で、パソコン的人間やソフトウェア的人間は、その人間内部の刻々とした状況変化の視点が無い。この辺りが、自動車的人間観の特徴である。

 そして、人間の生物としての実体験、いわゆる「腹が減っては戦はできぬ」との慣用句で表される体験と整合的であるからこそ、自動車的人間観が妥当なものと受け止められるのだろう。


■身分制の時代の人間観:金属に擬える人間観

 ここで一気に時代を遡って想像してみよう。

 冶金が最新の代表的なテクノロジーであった大昔においては、鉄鉱石や砂金の産地で鉄の品質の良し悪し、延いては身近な鉄製品の良し悪しが決まってくることから血統思想を背景として持つ人間観が強化されたであろう(もちろん、血統主義はそれ以外のバックボーンも持っている)。また「鉄は熱いうちに打て」といった慣用句で示される人間観は、まさしく冶金というテクノロジーで生み出された鉄に着想を得た人間観そのものである。

 材料工学が現代社会においても重要な基幹テクノロジーであることには変わりはない。材料工学が進展したからこそ現代の様々なテクノロジーが実現したといっていい。とはいえ、素材自体は"時代を代表する"テクノロジーの産物とのイメージが無い現代においては、このような「鉄」から着想を得た人間観がかなり違和感のある人間観だ。

 ただし、遺伝子工学が発展し、ある程度その成果物が社会に出回るようになると、この時代の人間観に類似した「血統≒遺伝子」から見る人間観が再びメインストリームになるかもしれない。


■啓蒙思想の時代の人間観:機械的人間観

 啓蒙思想の時代、すなわちヴォルテールやディドロ、ダランベールといった人々が活躍した時代における最新のテクノロジーの産物といえば懐中時計だろう。

 時計職人ブレゲにマリー・アントワネットが発注した「マリー・アントワネット」という懐中時計は当時の最新のテクノロジーの最高傑作だ。そして啓蒙思想の時代の人間観においては合理的・機械的な存在として人間は認識されている。

 典型的にはベンサムの功利主義思想から読み取れる人間像を挙げることができるだろう。各個人でユニークではあっても機械的に幸福計算を行って判断を下す人間像は、複雑な機構を持っていても各種の動作に関して合理的説明がつく懐中時計にそっくりだ。教育学の不朽の名著であるルソーの『エミール』であっても、自然回帰的な側面がありこそすれ人間の各器官の十全な成長によって人格が完成されていくという人間像は、精確に作り出された部品によって正常な動作をするという懐中時計がモデルになったであろうことが窺える。

 また、そういった機械的人間像から構成される社会像もまた機械的である。モンテスキューの三権分立の考え方をみても、各パーツがそれぞれ果たすべき機能を果たして全体が正確に動作するという機械的社会像が描かれている。更にはコンドルセの社会思想などは、機械的人間によって構成される、社会という複雑な機構を持った機械の技術マニュアルといった印象さえ受ける。実際に機械的人間観から合理的社会を創り出そうとした試みがフランス革命である。革命政府が導入を図った様々な取り組みを見るにつけ、その背景となった機械的人間観が浮かび上がってくる。このように啓蒙思想の時代の人間観は当時の最先端テクノロジーの産物である懐中時計のような機械をそのモデルに取っている。


■19世紀後半の人間観:蒸気機関的人間観

 19世紀後半の先端テクノロジーは蒸気機関だ。鉄道網が張り巡らされて蒸気機関車に牽引された列車によって各地に人々が移動するようになり、また様々な機械の動力源として蒸気機関が一般化する。

 したがって、この時代の思想家の人間観は蒸気機関をモデルにしていることが多い。蒸気のような不定形のエネルギーをもった存在として人間が認識されているのだ。蒸気機関にとっては蒸気エネルギーを如何に制御するかが重要であり、また蒸気エネルギーが制御不能となったときは事故が起こることも常に念頭にある。同様に「不定形のエネルギーとその暴発」は19世紀後半の人間観・社会観の重要な要素として存在している。

 このことは、19世紀後半に登場するマルクスの経済理論と啓蒙思想の時代のアダム・スミスの経済理論を比較するとかなり明確だ。

 アダム・スミスの思想では、機械的人間観から合理的経済人で構成されるスタティックな社会が描かれている。まさしく啓蒙思想の時代の懐中時計的な人間観に基づく思想、すなわちどのような部品がどのように組み合わされて働くかに注目している。機構へのゴミの噛み込みや部品の歪みで故障する時計と同様、人間や社会が上手くいっていない場合を考えたときも"暴発"のような破壊は念頭にない。

 一方、マルクスの思想においては、「蒸気機関は蒸気エネルギーで稼働しているものの、蒸気の圧力に耐えかねたときには爆発してしまう」という事態と同様の事態が、人間や社会についても起こるとしている。社会を駆動させる力を持った存在であると同時に、社会を破壊する力を持った存在でもある、不定形のエネルギーをもった存在として人間(とりわけ大衆)を捉える。また、上部構造がシッカリ機能している内は社会を正常に機能させるが、人間のエネルギーの強さに上部構造が耐えられなくなってくると、そのエネルギーは歪な形で噴出し革命となって旧社会の上部構造を破壊(そして新社会の上部構造を創出)すると考えるのだ。

 このマルクス思想の考え方が、蒸気機関が不定形の蒸気を制御することによってそのエネルギーを有効に利用している一方で、蒸気のエネルギーが高まりすぎて蒸気機関がその圧力に耐えきれなくなると、これまで利用していた蒸気の力によって蒸気機関が破裂してしまうという有り方から着想を得ているのは明らかだろう。

 機械的人間観のアダム・スミスのスタティックな社会像に対して、蒸気機関的人間観のマルクスが描く社会像は実にダイナミックな社会像である。

 因みに、19世紀後半から20世紀前半のフロイトおよびユングの思想もまた、蒸気機関的人間観に基づいていると思われる。このことに関してはまた稿を改めて考察したい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?