ガスライティングするフェミニスト
「モラハラ(=モラル・ハラスメント)」という単語が周知の単語になって久しい。また、精神的DVという概念も一般的になった。さて、ここで精神的DVの一つのバージョンとして「ガスライティング」なる概念に関して啓蒙する以下の記事がyahoo!記事に転載された。
ちなみに、「ガスライティング」の語源に関しては、1938 年の演劇とその演劇に基づいた映画『Gaslight(邦題:ガス燈)』から「『Gaslight』+ing」といった形で造語されたものだ。つまり、映画『ガス燈』において精神的DVが軸のストーリー展開があったので、その心理的虐待の類型を「ガスライティング」と呼ぶ形で俗語として造語された。そして、当該記事はそのクラシカルな意味での「ガスライティング」を取り上げている。
しかし、単に心理的虐待の類型として「ガスライティング」を紹介して一般的読者を啓蒙している記事であれば、筆者も当該記事を批判対象とはしないのだが、当該記事には一般的読者をミスリードする数多くの仕掛けが存在する。大まかに言えば、「ガスライティング」という単語自体についての世界の潮流を誤認させるミスリードと、ガスライティングに関して「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」が存在しているかのように誤認させるミスリードが存在している。
とりわけ後者のミスリードは、昨今の日本社会において問題視されているジェンダーバイアスを強化することになり、非難すべき問題であると言える。更に言えば、日本のジェンダー問題を取り上げた啓蒙記事でしたり顔をしながら、その一方で別個のジェンダーバイアスを強化する言説を流布するなどといった行為は悪質極まりない。そして、言ってみれば「ガスライティング」を問題視して啓蒙する記事で論者がガスライティング(※後述の意味2)をしているのだ。まるで、嘘つきクレタ人のパラドクスのようなバカげた状況だ。
以下においては、このこれらについて考察し、当該記事に関して批判をしていきたい。
出羽守としても失格のフェミニスト
■半世紀前は「最近」ではない
さて、記事には以下のような記述がある。
実際にメリアム・ウェブスターの以下のページでGaslightingの単語を確認してみよう。
つまり、ワード・オブ・ザ・イヤーを選出したメリアム・ウェブスター社自身の説明によると、「ガスライティング」を2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに選出したのは上記の太字で強調した事情によるのだ。フェイク ニュースやディープフェイクがアメリカ社会における大きな社会問題となり、行為主体に関して個人・組織を問わない「誤解を招くための意図的な陰謀」からの欺瞞や操作が深刻な社会的脅威となったことを背景に、多くの文脈での幅広い使用によって「ガスライティング」を2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに選出したのだ。
このことを踏まえてもう一度、「夫婦関係の専門家が見た精神的DV『ガスライティング』の実態」の記事の、「ミリアム・ウエブスター社による2022年のワード・オブ・ザ・イヤー」と「ガスライティング」の単語に触れた箇所について、今度は前後も含めて引用しよう。
上記の記事の「ガスライティング」の説明は、メリアム・ウェブスター社自身の説明とはかなり食い違う。そのことを明確にするために、比較に必要な箇所を抜き出し、並べて提示しよう。
以上から明らかだと思うが、批判対象の記事における「ガスライティング」の単語の指し示す意味は、メリアム・ウェブスター社の辞書によれば「意味1」にあたる。そして「意味1」は20世紀半ばに初めて使用されたときの意味であって、最近にわかに話題になった意味(=2022年にワード・オブ・ザ・イヤーの選出理由になった意味)ではない。先述の通り、2022年にワード・オブ・ザ・イヤーの選出理由になった意味は「意味2:特に自分の利益のために、人を著しく誤解させる行為または実践」の方である
ハッキリいって三松氏は出羽守としても失格のフェミニストである。
舶来信仰すなわち欧米コンプレックスがある日本人に対しては有効な「(最近の)○○では~」といった出羽守論法(○○には、欧米・ヨーロッパ・アメリカ・イギリス・フランス・北欧などが入る)の詭弁を用いるのであっても、「最近のアメリカでは~」と主張するならば、実際に最近のアメリカの話を出すものだ。「最近にわかに話題になっている」と言っておきながら半世紀前の話を出してくるのはどういう認識でいるのだろうか。どういう時間スパンの話をしているのだろうか。半世紀前が"最近"になる地質学の話でもしているのだろうか。
仮定の話としてだが、ミリアム・ウェブスター社による2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに触れずに「最近にわかに話題になっている精神的DVに『ガスライティング』というものがあります」と記事で表現したのであれば、また別の解釈が出てくる。すなわち、日本において「精神的DVである"意味1の"ガスライティング」が最近話題になっているという事実があるがゆえに「最近にわかに話題になっている」と表現しているという解釈が有り得る。
しかし、記事においてミリアム・ウェブスター社による2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに触れている以上は、ワード・オブ・ザ・イヤーの選出理由として精神的DVが挙げられたのだと解釈するのが一般的である。
仮定の話として挙げた解釈をするようなケースは、2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに関する予備知識がある、ウラ取りのため原典に当って「意味1」場合に、精神的DVの意味でワード・オブ・ザ・イヤーに選出させたわけではないと知りつつ、それでもなお、その事態と記事内容との間に整合性を持たせようと好意的に解釈をするケースなどの一般的とは言いかねるケースであると言えよう。
心理的虐待「ガスライティング」は性別を問わない
■記事で用いられているレトリック
メリアム・ウェブスター社の辞書による「ガスライティング」の説明からわかるように、心理的虐待の類型としての「ガスライティング」の概念には、被害者-加害者について性別は関係しない。すなわち、「被害者は女性で加害者は男性」という意味を含んでいない。換言すれば、ガスライティングにおいて「被害者は男性で加害者は女性」というケースも有り得るし、「被害者・加害者ともに男性」「被害者・加害者ともに女性」というケースも有り得る。更に言えば、ガスライティングは配偶者間や家族間の心理的虐待に限定された概念でもない(ただし、ガスライティングが観察されるケースにおいては、ガスライティングが「通常は長期にわたる心理的操作」であるがゆえに長期的関係となる、配偶者間や家族間におけるケースが多いとは言えるだろう)。
ガスライティングは配偶者間や家族間の心理的虐待に限定された概念でもないにもかかわらず、記事内容からは「被害者は(配偶者の)女性で加害者は(配偶者の)男性に限定された概念」であるかのような印象を受ける形になっている。すなわち、以下のような仕掛けが記事にはある。
男女共同参画局がまとめた「女性に対する暴力の現状と課題」というレポートを紹介する
語源となった映画『ガス燈』のストーリーである「夫の妻に対するガスライティング」を詳細に紹介する。
ガスライティングの手口の説明の際にドラマのシーンを想起させるが、そのシーンの被害者は女性にしている。
実際の事例として、妻にガスライティングした夫の事例を詳細に紹介する
被害相談窓口の紹介として「女性の保護や支援」を行う窓口を紹介する。
「被害者が男性で加害者が女性」であるケースの存在を匂わせもしない。
もちろん、これらの仕掛けは論理学的には虚偽ではない。だがレトリックとしてミスリードを誘うものだ。この記事で用いられているレトリックは別の例を用いて解説すると以下のようなものだ。
専門家が「新型コロナウイルスの脅威に女性は晒されている!」と警告する
確かに新型コロナウイルスの脅威に女性は晒されているだろう。だが当然ながら新型コロナウイルスの脅威は男女を問わない。男性もまたその脅威に同様に晒されている。それにも関わらず警告するにあたって男性には触れずに女性だけを警告の対象とするかの如くの専門家の表現は「新型コロナウイルスの脅威に、男性は晒されていないが、女性は晒されている」という誤解を齎す。ただし、注意をしておくが上記の専門家の警告は嘘ではない。「脅威に女性だけが…」といったような男性を対象から排除する明示的な表現をしていないので虚偽ではないのだ。しかし、レトリックとしては、表現において男性を登場させない事で現実世界においても男性が排除されているとの誤解を生じさせることを狙っている。
もっと分かり易い別の例を示そう。
「サマージャンボ宝くじの一等当選金を女性は受け取れます」と広告された
この広告では別に男性は一等当選金を受け取れないとは言っていない。だから論理学的に言えば、広告で虚偽が語られているわけではない。論理学的には、男女共に一等当選金を受け取れる事柄に関して「女性は受け取れる」と主張しているだけだからだ。つまり、論理学的には「A∨B」という事柄に関して「A」と主張するのは虚偽ではない(註1)。しかし、男女双方の存在が予想される事態に関して、表現において男性を排除したならば、現実世界においても男性が排除された事態であるとの誤解が生じるのだ。
このレトリックの効果に対してなお反論する向きもあるかもしれない。とりわけ、フェミニスト側の立ち位置の人間はこれまでのレトリックの効果の解説に納得しないかもしれない。そこで、このレトリックの効果によって女性側が不当に感じるケースを具体例として出してみよう。
M:「子育ての責任が女性にはある。女性は親がやるべきことをキチンとこなさなければならない。女性は子供の成長をシッカリ考えて自らの行動を律しなければならない」。
N:「その責任は男性には無いって言うの?女性だけが子供に対する責任を負わなければいけないの?」
M:「先程の主張では『男性の責任』については言及していない。したがって、子供に対する責任を男性が負っていないとは主張していない。また女性だけが子供に対する責任を負わなければならないとも主張していない。そうであるのに、あなたの勝手な解釈で私が主張していない事を主張しているとして批判するのは止めてもらおうか」
女性が不当に感じる側になる上記の例をみれば、「男女双方の存在が予想される事態に関して、表現において一方の性別を排除したならば、現実においても一方の性別が排除された事態であるとの誤解が生じる」というレトリックの効果を実感できるだろうか。
もちろん、上記の例におけるN氏の非難に対するM氏の応答は論理学的には間違っていない。レトリックの影響を受けた解釈は、論理学的な観点からはM氏が反論するように、M氏の主張の直接的内容に含まれていない内容を含んでいる。だからM氏の反論もその論理学的観点からは正しい。
この論理学的観点からのM氏の反論の正しさが、「主張に含まれたレトリックの効果」を批判する際の難しさになる。レトリックの効果によって生じた印象は、言ってみれば論理によって生じたものではなく、心理傾向や思考枠組みの性質から生じたものだからだ。譬えてみれば以下のような心理上のメカニズムを利用したものだ。
この10回クイズは、論理学的手法によって肘をヒザと誤認させたわけではない。しかし、心理上のメカニズムから類似する音の繰り返しによって(一時的に)ヒザと誤認させたのだ。そして、肘がヒザではなくヒジであることが両者にとって自明であるからこそ誤認がオチになっている。
だが、誤認させた内容が自明でない場合はどうだろうか。オチのある笑い話、すなわち、誤認であることを確認するステップが存在する話でなければどうだろうか。つまり、「ガスライティングの解説」ではどうだろうか。
上記のガスライティングの解説において誘導された「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」は、ピザピザピザの10回クイズのオチとは異なり、間違いにすぐ気づいて自分で修正できるような自明な知識の範囲にはない。そもそも「ガスライティング」に関して啓蒙記事が書かれているのだから「ガスライティング」に関する知識は一般的読者には無いのが前提だ。したがって、タチの悪い啓蒙記事でレトリックに依って誘導された誤認を含む知識はそのまま(一部が間違った)知識として一般的読者に蓄積されていくのだ。
以上のことから分かる通り、アメリカで用いられている「ガスライティング」の概念に関して、心理的虐待という意味であっても、その認識枠組みにおいて「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」には囚われていない。更に言えば、配偶者間や男女間で発生するものといった認識枠組みもアメリカのガスライティングの概念にはない。それにもかかわらず、この啓蒙記事においてはガスライティングの概念において「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」が存在しているかような誤解を生じさせるレトリックを用いているのだ。
まとめ
本稿において批判対象とした記事には、ミスリードを誘う数多くの仕掛けが存在する。そして「ガスライティング」という単語自体についての世界の潮流を誤認させるミスリードと、ガスライティングに関して「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」が存在しているかのように誤認させるミスリードに大別できる。もっとも、前者のミスリードは、もっと大きな視点で見れば「世界の潮流を利用するレトリック」として後者に回収できるので、当該記事においては「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」を読者に植え付けるのが記事の全体的な目的と言えるのかもしれない。
当該記事の批判するにあたって本稿ではまず、世界の潮流を誤認させる仕掛け、すなわち「ガスライティングという類型の心理的虐待が近年のアメリカで問題視されている」と誤解させるような仕掛けを批判した。つまり、ある種の類型の心理的虐待としての意味ではなく、フェイクニュースやディープフェイクといった社会的脅威を背景に「特に自分の利益のために、人を著しく誤解させる行為または実践」という広範な意味で、近年さまざまな文脈で用いられるようになったガスライティングという単語が、ミリアム・ウエブスター社によって2022年のワード・オブ・ザ・イヤーに選ばれたことに関して、その実際の選出理由を当該記事が無視して、あたかも「ガスライティングという類型の心理的虐待が近年のアメリカで問題視されている」からワード・オブ・ザ・イヤーに選ばれたかであるような表現をしていることを批判した。
つぎに、本来、男女間や配偶者間といった枠組みが存在しない「ガスライティングという類型の心理的虐待」に関して、当該記事においては「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」が存在しているかような誤解を生じさせるレトリックを用いていることを批判した。記事で用いられているレトリックに関してはかなり多様なものがあるのだが(註2)、本稿では「ガスライティングの解説において、様々な観点から繰り返し『(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み』を取り上げることで、あたかもガスライティングの概念の枠組みに『(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み』が存在しているかのような印象を生じさせるレトリック」を批判した。
正直なところ、こういうレトリックによってジェンダーバイアスは形成されていくと筆者は感じている。
フェミニストは「ワタシ達は日本社会のジェンダーバイアスを解消するために言論活動をしているの!」といった雰囲気を出しているが、彼女らは単にポジショントークをしているだけで、実際には「男尊女卑のジェンダーバイアスを女尊男卑のジェンダーバイアスに置き換えているだけ」の活動をしている。フェミニストがジェンダー正義の旗を掲げて正義の味方面しているのがチャンチャラ可笑しいとさえ、筆者は感じている。
註
註1 「A∨B」は「AまたはB」と読む。このときの∨の記号は「Aだけ」「Bだけ」「AB両方」の全ての場合が論理的に真になる。ただし注意が必要なのは、日常表現の「または」は排反的選言と呼ばれる意味で用いられることがある。つまり、日常表現の「AまたはB」に関しては「Aだけ」「Bだけ」という意味となって「AB両方」の意味ではないケースがある。たとえば、「ランチセットにはスープまたはサラダが付きます」とレストランのメニューに書かれていた場合の「または」はスープかサラダのどちらか一方だけがランチセットに付くことを意味しているのであって、ランチセットにスープもサラダも両方が付くことを意味していない。「A∨B」と「AまたはB」の解釈における意味のズレの可能性(=「または」では排反的選言と解釈される可能性)があるため本文においては「A∨B」という硬い表現を用いた。
註2 当初の予定では、「(被害者,加害者)=(女性,男性)の枠組み」の繰り返しのレトリックだけでなく、「被害者は(配偶者の)女性で加害者は(配偶者の)男性に限定された概念」であるかのような印象を生じさせる個々の仕掛けについても解説するつもりであった。すなわち、以下のように節を立てて詳細に考察しようかと考えていた。
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だが、長編のnote記事はダッシュボードを見る限りあまり読まれていない印象を受けるので、上記は割愛することにした。
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