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自問でひとやすみ(改稿あります)

内省


ただ、1970年に生まれた50才の  ひとりごと(自問)として、ここに書きたいことがある。

それは、今書かなきゃだめ。なぜなら  やがて、もてなくなるかもしれない感覚だから。変わってしまう私かも しれないから。

私は、母から「人には、裏表があるもの」
「表(オモテ)がいいひと、おなかは まっくろけっけ」
「にこっとする人、背中向けたらべろを出し」
「ものは言わんが花のうち」
💡などなど…:人にいい顔ばかりしても、信用なくす
        言葉だけを うのみにしないように
        心(真意)は(かるがるしく)みせるものではないよ
  と、いう 感じのことを、いっぱい言われ、育ってきたのです。

↑  もしかして、母は
口がわるいから 私の本心は 白い、って 言いたいの ? 💡と、
邪推してしまうほど。

だけど、いま

表も裏も なくしたい… と  いうか、
うちも  そとも、どちらも 良しとして、どちらも伝えられる 言葉づかいや、体験の場を もとうとする
人が、多くないですか?  
そもそも、真っ黒な「裏を返」し、ぶつけるように  つき合っていく必要は、あるのかな?

そんなに黒いままを なおざりに 放っておいては、いくら タフな母だって、生きづらくない❓

そして、そんな黒いところばかりを 母にぶつけて こられたら、私は 隠している自分の黒さ以上に、もっともっと、真っ黒けっけになるのじゃなかろうか。。
これから 母以上に ほかのなん人分をも 受けとめていったら、もう、自分じゃどうしようもなくなって しまうのじゃないでしょうか。。。

そう思うと、私は  とても 恐ろしいのです。


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杞憂

うらと おもてを 作るのは、もともと  なにかを守るため、いったん、置くため・仕切りなおすため・暮らしの節目や拍子をとって、ひとめぐり、一年ごとの「その場 」「その時を」正気で元気でいるための、すこやかな〈知恵〉ではなかったの?

人には おなかと せなかが あるよ、と
ただ それだけのことではないの?

どっちかを わざわざ 白(良し)と  して
どっちかを 黒(わるし)と  固定するなんて、無理は ないですか?

そんなふうに、母のくちぐせ・自戒のなかに 含まれた、過剰な慎重さとか、保身に  改めて驚いています。それを、私は  無自覚のまま、引き継いでいたみたい。

根拠のない、無自覚な 不安と不信を 心にどんどん、殖やしていました。苦しかったです。

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外の世界

私の知る 外の世界は、思っていたほど いじわるじゃなかった。

人には温かく ユーモアをもって。
内には真剣に、自分と向き合って。

そんな人が、たくさんいました。
だったら、内と外に矛盾があっても、いいじゃない。
矛盾をみとめられたら、真摯やん。
その矛盾、じぶんだけの、だいじな課題やん。

😵 冷淡?  態度がちがう?  裏表???
ごめんごめん、言うてぇや、気づかんかってん。
ガン無視? いや、重ぅて受けとめきれんかったんや。

😄 なぁ、こんど  めしいこか。
そこでしゃべろか。
ほな来年か再来年な。
せや、ほんまは行く気あらへん。あはははは。

😆 あほかいな、なんやいな、もう、ここで言うたれや。
ちょぉ待ってや、おまえ、かお  コワイヤナイカ …


。。。そう。いじわるじゃないけれど。
ひとこと 一言を、合いの手とともに うけとめ、交わしあっているうちに、ときには  私じしんの思っていなかったような、とんでもない場面に 連れていかれてしまうことだって、あるのです。きらきらと ・するすると、コミュニケーションの要点は  私の手のひらや感覚を、わざわざと  のがれていくみたい。

そして  言われる。

「ちょう、お前ほんまに関西人け?  わからんのん、このノリ」

・・・わかりません。
好意があっても、いじわるじゃなくても、うまく 話ができない私。
「うん、わからへん」
「ごめんゴメン、きいてへんかった、なに何?」と
笑顔や 真顔の 向けられない私。

😤 私だって、こう言いたいんだからね!
🥲 こんなこと、思ってるんだよ。。
って、言いづらい私。

べつべつに育ったはずの、年代のちがう  母とも・夫さんとも、
やっぱり  うまく会話がかみ合わないなら、おかしいのは、私のほうなのかなぁ。。。かなぁ。。。。。

ちょっとグレーな気持ちのまま、いっしょにごはんをたべ続けている。そんな  毎日を かさね、重ね、するうちに、

ちょっとずつ、腹を割って話してしまえば、うっとうしいほどに  だいたいの相手は〈ええひと〉に、〈かけがえのない人〉に なっていってしまう。
そこが  めんどくさい。いつまでも  かつぎ合わんといかんというような、思いのくせが抜けきらず。。ずず… ずずずっ。。。。

と、重たくなっていく。

でも、それも しかたのないような。。。
だけど、受けいれがたいような。。。


新しい出会い

気がつけば、新しく出会う まわりの人は

やさしいひとが、おおい。
すなおなひとが、おおい。
少しの no のサインにも 涙をにじませる。

できないことを「できない」と、
嫌なことを「ヤダ!」と言う。

それは、よわいことでも 馬鹿馬鹿しいことでも  なんでもなく、世の中の進みたい方向かも しれないんじゃないの?

みんな、わかりやすく、素直でいたいのかもしれないな。
母のきらう 世の中。やさしく、賢いひとだけの世界になっていくのかなぁ。。。そんな世界に、だだっこは どこまで駄々をこねても、なにがほしいか  伝えられない。

だだっこの顔は、母から、夫さんへ。夫さんから息子を経て、いつしか  わたしじしんに  変わってる。

私はどうなりたい?
どんな私でいたい?

私の母ではなく、むすこの母ではなく、わたし自身として。


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中途の駅舎

えらんで、自分を 古くする必要はない。まして、まげて、わざと黒く ぬりつぶすような  底いじのわるさを〈伝統〉とか、〈風習〉なんて、言い張り、まねていく必要もない。

町で ふつうに生きてると、5年、10年と 経つうちに
😂「できないー!」と  歯がみして涙こぼせば、おしりや背中を 押してくれる人に  出会うし、

😂「できない〜」って言いつつ「でへへ」と笑ってしまえば、いっしょに知恵を出したい仲間が 知らずしらず集って、「でへへ」と わらいあい、わいわいと尽きない話を楽しめるようになる。

可能性は、はじめから
そんな風に   あの街にも、この町にも、たくさんあるんじゃない  ???

教わることも多いんじゃない? ことば交わさなくても。
ただ見つづけるだけでも。
耳をかたむけるだけでも。

ずっとずっと、年下の人たちからも。
ちがう立場の人からも。


まだ、答えはなくても。
答えが言葉でなくても。

思っていることと、ちがっても。


いい人にみえる人は、ほんとにいい人なのかも しれないよ?
突き当たっても、そのままずっとのびていけるかも しれない。
くせのあるひとは、そのくせを 大切に思ってるかも しれない。
〈かけがえがない〉と。
そのくせを、出したいときも、
そして、かくしたい場合も あるんじゃない??

母のものさし、地域の基準じゃなくて、私の感覚を信じていって いいんじゃないの。
あるいは、目の前に差し出されたことばだけを、素直に受けとりつづけては???


ひと目を気にして、パタンと  伏せたものが

やがて のびあがって、

ひとりでに 
すんすん伸びて、

しらんぷりして、陽ざしを浴びていることも、

あるんじゃないの。


もしかして それを〈育ち〉と いうのじゃないの?
そんな  心地よさも、心づよさも  あるんじゃないの。


その花は、あなたが  咲かせたんじゃないの?
心の景色も うつりかわっていくんじゃない?


自問自答はつづきます💡 。。。