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memo.|戦後41年に生まれ、戦後75年にふりかえる。

8月15日。先の戦争の終戦の日、日本中の人たちが死者を悼み「二度と戦争を繰り返さない」ことを誓う。
次の終戦の日まで、新たに始まる一年をどう過ごしていけるだろうと考える。

新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大防止のため人が集うことが制限された今年はとくに「想像する」ことが重視されていた気がしている。
75年前の「あの日」、「あの日」までの日々と「あの日」から続いてきた日々を、後から生まれた者として想像する。
先の戦争を知る人たちの語りを聞き、残された記録を読み、あるいはそこからうまれた創作物に触れて、ごく普通の人たちが戦争に巻き込まれ、ときに加担していったことに驚く。ごく普通の人たちの辛さやかなしみに共感する。

けれど、想像力にしがみつくことは、ときに無責任かもしれないと思う。

「戦後」と「平和」は、その時間を〈はじまり〉から知っている人だけに語る責任があるものではないだろう。
「戦後」に生まれ「戦後」に生きてきた一人として、その歴史の上に、私の生きてきた「戦後」を少しふりかえってみた。

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戦後41年(1986年)
広島県呉市に生まれ、当時は安芸郡だった音戸町で育った。

戦後45年〜54年頃(1995〜1999年頃)
遊び場にしていた近所の海水浴場に、入口にお地蔵様が立っている壕があった。(戦時中、その海水浴場のある公園一帯が基地であり、特殊潜航艇の訓練が行われていたと知るのはもっと後のこと。)小学校の宿題で広島県三原市に住む祖母に広島市に原子爆弾が投下された日のことを聞いた。小学校では何度か広島平和記念資料館を訪れた。被爆者の描いた絵は当時からずっと忘れられない。ある年の夏休みに『白旗の少女』を読んで読書感想文を書いた。

戦後55年(2000年)
中学校の修学旅行の行き先は沖縄本島だった。沖縄戦で集団自決が行われたチビチリガマの暗闇と、米軍基地の近くで聞いた騒音を覚えている。

戦後56年(2001年)
高校に入学、埼玉県に引っ越す。高校の寮の広間にあったテレビでアメリカ同時多発テロを知った。

戦後57年(2002年)〜戦後58年(2003年)
友人の一人が自衛隊イラク派遣への反対活動に参加していた。一緒に国会議事堂前での座り込みに参加した。高校でイラクと日本の高校生をつないだインターネット電話の対話が行われた。戦争を経験し平和憲法をもつ日本がなぜアメリカに協力するのかとイラクの高校生が質問した。私はその問いへの答えをもたなかった。
『軍隊をすてた国』という映画を見て、コスタリカの人たちがイメージする〈平和〉と自分がイメージする〈平和〉が大きく違うことにはっとした。
この頃、父方の祖父が原子爆弾投下直後の広島市にいたこと、大叔母と曾祖母が行方不明になっていたことを知る。祖父は戦争のことを全く語らない人だった。同時期、広島市の平和記念公園の国立原爆死没者追悼平和祈念館に登録されている原爆死没者に「是恒」姓の女性と少女を見つけた。

戦後59年(2004年)〜戦後60年(2005年)
音戸町の実家に戻り浪人しながらバスで通えた呉市内の喫茶店でアルバイトをしていた。2005年に呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)が開館。「海軍のまち」として人を集める呉の歴史と、被爆地・広島の歴史は近くにありながら全く違う語られ方をしているようで違和感を感じていた。

戦後61年(2006年)〜戦後65年(2010年)
アメリカ・アラスカ州の大学へ留学。出身地を聞かれると「ヒロシマ」と答えていた。「クレ」や「オンド」と言っても誰にも通じないから県名のつもりで答えていたけれど、誰もが「ヒロシマ」とは「広島市」のことだと考える。ある大学生に「まだ廃墟なの?」と聞かれた。“I am sorry.”もよく言われた。
アラスカ州北極圏の町、ポイント・ホープを初めて訪ねた。この町の近くで核実験が計画されていたことがある。近郊にあった核廃棄物のようなもののことを覚えているという人がいた。ポイント・ホープの住民たちはヒロシマへの関心が高かった。

戦後67年(2012年)
広島市の平和記念式典で毎年述べられる、こども代表の「平和への誓い」。この年の誓いには、東日本大震災後に福島から広島に移ってきたこどもの体験が織り交ぜられていたことが印象に残っている。
おそらくこの頃だと思う、社会科教員の父が広島の街中に残る戦争遺物をめぐる書物に取り組んでいた。協力していた母と広島市の寺を訪れ掲載許可をもらった。そこには原子爆弾の熱線で頭部が溶けたお地蔵様がいた。

戦後73年(2018年)
ブラジル・サンパウロを訪問。日系移民一世で長年現地で暮らしていた大叔父が、軍歌「戦友」を快活に歌ったことが印象に残っている。

戦後75年(2020年)
このnoteを書いた。ふりかえるとそこにあったのは、他の誰でもない、私自身のことだった。先の戦争を忘れないことだけでは平和への誓いは果たされない。8月15日以外の毎日が戦後の日々であることを忘れずに、これから来る日々を過ごしていこう。

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(*今回のnoteの写真の撮影地は全て、故郷・音戸町です。)

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