ゆめみがち

 もっていないもののことばかり考えている。なくしたもの。二度と戻らないもの。きっと一生手に入らないもの。そんなもののことばかり。この手のなかにあるものがどうでもいいわけではない、とは思う。ただ、私にとって生きることが待つことで、祈ることだというだけで。

 ゆめみがち、ということばを久しぶりに聴いた。ずっと、夢をみているんだろうか。ゆめみがち、と口にしたひともそれを聴く私もどこかの曲がり角が違えばここにはいなくて、かわりにずっとずっと焦がれている憧れと笑いあっていたのかもしれない。そう思うと心細くてひとりで立っていられないような気持ちになって、でも手を伸ばした先のあなたも、ただ偶然そこにいただけかもしれないのに。言葉どうしが衝突事故を起こしたとき、それでも痛いのは、ぜんぶが夢じゃないって証拠にはなるんだろうか。

 耳鳴りが遠い。そのうち外側から目覚まし時計の音波が世界を蹴りつけて、のろのろ目がさめたらまだあの夏にいる気がする。早朝の教室でカーテンが音もなく揺れる、水を飲む横顔、五百円ねって憎まれ口。あのひと。昨日話した誰かの輪郭より、おとといみた映画のエンディングより、先週行ったライブより、嘘みたいに鮮明なのに。

 あの夏の方が夢だったんだということを、いつかあのひとの手で突きつけられるのが怖い。憧れ、執着、憎悪、どんなことばでも足りるとは思えないのが悔しいけれど、私は安全な場所にいて、抱えきれないほどのものを抱えたうえで、ないものねだりをしているんだからしかたない。あのひとが特別なのは、あのひとが一度も私のものにならなかったからだ。人生のいちばん美しい瞬間をすべて捧げて、愛して、いがみあって、追いかけて、信じて、憎んで、焦がれた。手に入れたくなんてないのかもしれない。

 あのひとがただの人だって思い知りたくない。だから、人波を探しもするし、二度と会いたくないのもほんとう。偶像信仰だと非難されたとして、私はそれに返すことばをもたない。ことば。それも、永遠に手に入らないもののひとつだと思う。

 私のものではない言語で、私のものではなくなってしまった過去の、私のものにはならないひとの記憶をずっとなぞっている。そのすべてさえ夢だとしても、いつか見果ててしまう夢の墓標に刻むことばが、私のもつ感情のなかで最も美しい光を放ってくれればいいと、ただ、それだけを祈りつづけている。

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