光源のありか

 生まれた場所が帰る場所ではないことから吹いてくる冷えきった風に、どんな名前をつければいいんだろうか。捨てられないものだけを抱えて逃げてきたこの街で、失えないものがまた増えていくことが怖くてしかたがない。ひとりで泣くことには慣れていたはずで、けれどいつかすべてなくしてしまったときに呼吸の仕方を思いだせるんだろうか。

 東京という街が一等うつくしいのは、どこにも帰りたくない夜に意味もなくどこまでも歩いていくときに違いなかった。失ったものを色褪せないままにしておくのに、これ以上ない隠し場所がこの街だった。閉店後の喫茶店、地下のライブハウスにつながる階段、路面電車、暗くひかる路地裏。信号を渡るごとに移り変わるなにもかもが鮮やかで、私の心臓の裏側にしかついていないセピア色がかえって特別だった。

 交差点に邪魔されて、踏切を越えながら、小路をまわりこんで。そうやって川をいつまでもなぞって歩いて、そうしているといつか海にたどりつける気がした。もう帰れない海に。水面の鈍い光をみつめていると、遠い遠い約束をまっすぐに信じていたくなる。過去には誰も入れてあげられないことの、こんなに残酷なことだとは知らなかった。ずっと心臓をあの夏に置き忘れてきたことを、思いださないまま生きていけると思ったのに。

 もう帰る場所がないんだな、とときどき忘れものに気づくようにおもう。片道切符はある。電車に揺られながら、春までをずっと待つための。あの街に帰ったところで、戻りたい場所も会いたいひとも、もう過去にしかないんだってわかっている。

 水のなかで生きるように、息が苦しいのがあたりまえだったけれど、もうすぐ、この息苦しさを誰かのせいにしないですむ冬がくる。ひとりになれない、という孤独から逃げて逃げて、その先でやっとさみしい、って声に出せる気がする。そうしたら弔いたい。終わってしまったもの、失ってしまったもの、これからずっとずっと振り仰いでみつめながら生きていく景色たちを。簡単にうまれかわりを信じたい。

 この街の空には案外星がみえて、それに何度も救われている。時が止まってしまいそうなくらいしんと冷えた空気の静謐な匂いを吸いこんで、脈絡もなく泣きたくなる。戻りたい?って友人に訊かれた夜のあかるさをまだ覚えている。ずっと住んでたのにちゃんとみたことなかった、と笑ってくれたひとの声が消えない。憧れのひとがくれた、とりあえず続けることです、ということばがどこまでも一等星だった。同じ強さで、ここではない遠くで、うすい記憶のなかにしかない満天の星空をもう一度みにいきたい、とも願っている。矛盾はしない強さで。

 遠い遠い星空の下で、記憶の答え合わせを果たしたとき、きっとほんとうのことが言える気がする。ことばにしかならない感情を、ことばにした途端色褪せるすりガラス越しの感情を、いびつな宝石のまま渡せる方法を思いだせる。それがどれだけ遠くても、いまは、夜の神田川沿いをいつまでも歩いていたい。朝には忘れてしまうような、なんでもない話をしながら。

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