ハイヒール1

住宅評論家が自宅マンションでゾーッとした、ハイヒールの足音

8月には「怪談の日」(8月13日)もあり、怖い話を聞く機会が増える。私も怪談というほどではないが、住宅取材で出遭った「ゾッとする家」の話をYahoo!ニュース「個人」で8月1日に書いた。
[最悪だった「2階の左の部屋」 住宅評論家が忘れられない「ゾッとする家」]
この記事は思いのほか反響が大きく、知り合いがわざわざ電話をしてきて「別の話はないのか」と聞いてきた。

ないことはない。取材した住宅での出来事ではなく、以前暮らしていたマンションで経験した、忘れられない話がある。
といっても、知り合いに携帯で話して聞かせる気にはなれないし、この後、頼まれる度にいちいち話すのは面倒なので、ブログに書かせていただくことにした。

夜中に聞こえてきたハイヒールの足音

それは、今から20年近く前、私が最初の本を執筆していた頃の話。季節は11月初旬だった。
当時、私はまだ会社勤めをしていたため、通常の業務後に自分の本のための執筆時間をとった。具体的には、自宅マンションに帰った後、明け方近くまでパソコンを打ち続ける。その結果、睡眠時間が3時間、4時間という日が2ヶ月以上続き、家に帰る夜道、歩きながら目を閉じて、ちょっとだけでも寝ることはできないかと試みるくらいに疲れていた。
そんな状態だから、多少幻覚や幻聴のようなものが起きたとしても不思議はなかった。なので、ここから先の話は少し割り引いて読んでいただきたい。

当時の私は原稿を書くとき、まわりが静かでないと集中できなかったので、深夜、家族が寝静まった後、無音の室内でキーボードを叩き続けた。マンションは駅から離れた場所に建っていたので、夜中は静まりかえり、タイプ音だけが響いていた。

仕事場にしていた部屋はリビングの横で、バルコニーに面していた。玄関からは一番遠い場所だ。
ある夜、玄関の外、マンションの外廊下からカツカツという足音が聞こえてきた。静かな深夜なので、遠くの音もはっきり聞こえた。音からすると、細いかかとのハイヒール、ピンヒールというのだろうか、そのような靴を履いた女性が思い浮かんだ。
そんな女性が真夜中にマンションの外廊下を歩いているんだ……ぼんやり思っているうちに、足音がぴたりと止まった。

私の住戸はマンションの一番端。外廊下を歩いて来る人がいるとして、我が家より先に廊下はない。つまり、足音の主は我が家の玄関前に立っているとしか考えられなかった。
20年前は、今のようにオートロックが普及しておらず、私が住んでいたマンションも部外者が容易に建物の中に入ることができた。いったい誰が入りこんだんだろう、と時計をみると、午前1時40分を少し過ぎたところだった。
当たり前だが、深夜にハイヒールを履いた人が訪ねてくる予定はない。なのに、玄関の前にハイヒールを履いた人が立っている。そう考えると、背筋がぞーっとした。

誰が立っているのか、確かめるには玄関まで行き、ドアスコープから覗いてみればいい。しかし、その勇気はなかった。
誰も居なければよい。でも、覗いて、外に居る人と目が合ってしまったら、どうしよう。その恐怖があまりに大きかったため、私は首を振って「なかったこと」にした。
ハイヒールの音は空耳で、外廊下を歩いてきた人もいない。何も聞かず、何も起きなかったことにしたのである。
その日は、それで終わった。


翌日は、ハイヒールが歩みを進めて……

翌日の深夜も仕事をしていた。
仕事をしながらも、夜中の1時を過ぎた頃から、気もそぞろになってきた。
昨日は1時40分頃だった。同じような音が今日も聞こえるのだろうか。聞こえてきたら、どうしよう、などと考えて仕事が手に付かなかったのである。
このように待ちかまえていると「出ない」のが世の常、なのだが、わが家の“それ”は極めて律儀に、時間も正確に午前1時40分過ぎに出た。
カツカツと、ハイヒールの音。
「えっ、何?」
昨夜は、外の廊下を歩いて玄関前に止まったように聞こえた。が、今夜の靴音は家の中に入り、室内の廊下を歩いて私がいる奥の部屋を目指しているように聞こえたのである。
もう「なかったこと」にしておくことはできない。私は思いきって立ち上がり、リビングを抜けて室内廊下に向かった。
リビングのドアを開けて室内廊下にゆくと、そこには誰もいなかった。その勢いのまま体をぶつけるように玄関ドアを開けて、外廊下に出た。
ハイヒールの足音を響かせた人の姿は、結局、室内廊下にも、玄関にも、長い外廊下にもなかった。 

「誰もいない」外廊下に立ちすくんでいると、ほんわかとした暖かさを感じた。
11月の深夜である。外廊下が暖かいはずはなかった。しかし、室内よりも、外廊下のほうが暖かかった。
それほど室内の廊下が冷えていたのかもしれない。


2ヶ月前には、こんな出来事も

後で思い出したのだが、じつは不思議な出来事が起きる2ヶ月前の9月、まだ夏の暑さが残る深夜に我が家の玄関チャイムを鳴らす人がいた。誰だろうと、インターホンで対応すると、タクシー運転手だという。
玄関を開けて話を聞くと、「10分ほど前、帰宅した女性はいませんか」と尋ねてきた。
「そんな人いませんよ」
「やっぱり、そうですか」
じつは、このマンションまで若い女性客を乗せてきたが、手持ちのお金がないので、家に取りに行く。少し待ってて、と言われたまま戻って来ない。その女性がこの部屋番号を言い残していたので、部屋まで来てチャイムを押した、と説明された。
うちには若い女性は居ないと話し、30代後半だった妻も寝室から顔をのぞかせたので、運転手は納得した。
「私は騙されちゃったんですね」
運転手は肩を落とし、続けてこう言ったのだった。
「その女性は、ハイヒールの音を妙に高く響かせて、このマンションに入っていったんですよ」
 
11月の初旬、ハイヒールの音を家の中で聞いた(と思った)翌日から、我が家の内でも外でも靴音がすることはなくなった。
もしかしたら、家の中に入ったので、靴を脱いだのかもしれない。


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