一切智 知ってもうことは安心 愛情・慈悲につながる 漢方診療日記㊹

先日、北鎌倉 臨済宗円覚寺管長 横田南嶺老師と対談した。孤独死がなぜ嫌なのかの話をしたのだ。その時に「知る」ということについて考えさせられた。
子供の頃から受験勉強をしたり、医師国家試験を受けたり、専門医の資格を取ったり、論文を書いたりと私は今まで知識を集めることを熱心に行ってきた。それはどこか、後ろめたいというか、下世話というか、競争心を煽られるというか、優劣の話に近いと思っていた。医者の中でも専門医の資格を持っている者はそうでない者より勉強しているなどとつい考えてしまう。
でも、老師は、知ることは愛に繋がるというのだ。知という響きに下世話なイメージを持っていた私は、年をとって文字に出来る形式知より文字化出来ない暗黙知を大切にするようになった。また、東洋医学を学ぶうちに気功などを通じ気を感じる、雰囲気を掴むなども大切にしてきた。しかし、知ることが愛情、慈悲に繋がることは思いもよらなかった。
孤独死が怖いのは誰にも知られずに一人で亡くなるからだろう。医者や看護婦など医療従事者がもしもの時の為にそばに居て欲しいというのではない。自分が死んでいくところを傍で知っていてほしいと感じるのが人である。病院で死にたいと言ってるわけではない。自分のことを知ってもらっているという安心はあるのだろう、
最近、自分の日常生活や食べたものなどを逐一、世間に知らせるブログが流行っている。また、自分がその時に思ったことを、呟くツイッターをする心理はそういうものかもしれない。他人に知ってもらうと安心する。
老師によると仏教には、[一切智に帰依する]とう考え方があるという。一切智とは全てを知っている存在だ。自分の恥ずかしいことから生まれる前から、死んだあと、どれだけ苦しいかなど自分のことから宇宙の始まりまで時間軸、次元を超えた一切の情報を知っている存在だ。書いて伝えることの出来る知識だけではない。
老師は私に言った。「人に知ってもらうと、で人は安心する。さらに、人以外の大きな存在、それは仏と言っても良いし神といっても良い、でもその存在が全てを知ってくれていると感じることが出来れば、孤独であっても、勿論、孤独死の渦中でも安心がある」と。私には分からない境地だが、話を聞いてみて何となく想像はできた。
相手を知ることが優しさに繋がるように私自身の修練が必要だと感じた。

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