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キュロスの碑文を歌いたい(1)

「ダビデの声明/如来のイムヌス」を甥の櫻井元希と公演をしたのが2020年3月。第二弾は、「菩薩のラメント(哀歌)/キュロスの哀愍(あいみん)」を予定。ラメントも哀愍も「神の哀れみ」という意味です。

今回は「キュロスの哀愍」について。
現在、「キュロスの円筒碑文」を歌にしようと奮闘中です。

キュロスの円筒碑文

キュロス2世(BC600頃〜BC550)は、バビロンの王、詳しくはアケメネス朝ペルシャの初代王です。

彼は、初めはアンシャン(シーラーズの北西、ペルセポリス)の王でした。シーラーズは、ペルシャの首都テヘランよりも700km南です。キュロス2世は、バビロン(今のイラクのバクダード)を首都としたバビロニア王国の王であったナボニドゥス(?〜BC539)から王座を奪いました。

キュロス2世

ナボニドゥスは、バビロニアの王であるにもかかわらず、母親の出身地ハッラーン(当時のアッシリア、今のトルコとシリアの国境近く)の月の神「シン」を信仰したのです。そこでバビロニアの守護神「マルドゥク」は、彼を王座から引きずり降ろし、キュロス2世を王につけると決めた、と「キュロスの碑文」は始まります。

守護神マルドゥクによって、キュロス2世はバビロンに入城し、バビロンの王となります。
キュロス2世は、ナボニドゥスが異教徒として捕らえバビロンに拘留していた民族、人々を解放し、彼らの故国への帰還を許しました。また、彼らの信仰していたそれぞれの神々の神殿を故国に再建しました。「あなた方の神々にバビロンの王国が栄えるようにと祈りなさい」と。
キュロスの碑文にはティグリス川より東側の地域、アカデ、エシュヌンナの国、ザバンの町、メトゥランの町、デールなどの地名が書かれていますが、ティグリスよりも西側、イスラエルの記載はありません。しかし、旧約聖書の歴代誌・下・36章22節には、「キュロスがエルサレムに神殿を建てることをキュロスの守護神が命じた。そしてエルサレムに帰りたい人は行くがよいと言った」と記されています。

今の言葉で言えば、平和外交です。

「世界の歴史まっぷ」より

それぞれの地域の人々の信仰を認め、「あなた方の神々に私の国(支配者)の繁栄を祈りなさい」、と書かれた「天命の書板」に向かって誓いを立てさせる政策は、新アッシリア王国の黄金期の王、エサルハドン(B.C.681〜B.C.669)によるものでした。武力は国力を疲弊させると言う考えはこのころからあります。しかしエサルハドンの息子、アッシュルバニパル(B.C.668〜B.C.627)はエラムを壊滅させます。あまりにも凄まじいエラムの歴史は、以降語られなくなりますが、その放置された場所に、キュロス2世の祖父、キュロス1世(クル1世)が移り住み、再建したようです。

アッシュルバニパルの時代にも、様々な国々との戦い、攻防、そして支配ののちには、「天命の書板」の政策は行われ、その後も歴代の王は戦い、攻防を続けつつ、アッシリア帝国の中で続いてゆきました。


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