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キュロスの円筒碑文が歌になった!「菩薩のラメント・キュロスの哀愍」公演、無事終了致しました

声明とグレゴリオ聖歌がポリフォニーする PARTⅡ
「菩薩のラメント・キュロスの哀愍」

新バビロニアの王、ナポニドゥス(BC.555〜539)から政権を奪ったキュロス2世(BC.600〜529)は、アケメネス朝ペルシャの王となりました。

キュロス2世の政策は、戦争で奪った領土の民を自国の領土に連れてきて奴隷として使う、というよりも、彼らを故国に戻し、彼らの熟知した風土の土地に効率よく生産させたものを貢がせ(税金を取る)たほうが、国の経済力は上がると判断し、捕らえられた敗戦国の民を故国に戻しました。ペルシャ帝国の王を名乗るキュロス2世は、奴隷が多くなれば彼らの不満が、反勢力と結びつくことも予測しました。

例えばイスラエルの地には、イザヤ書44章28節によれば、「キュロスはエルサレムにイスラエルの神の神殿を建てた」とあります。イスラエルの民の土地を返し、宗教の自由を与え、彼らから税収を得る。賢い王ならばそうするでしょう。

「そのかわりにあなたの神にキュロスが栄えることを祈りなさい」という契約書がキュロスの円筒碑文です。それぞれの故国に戻る民に、このキュロスの碑文を持ち帰らせました。これは契約書ですが、紙のない時代に、粘土に刻まれた板を持ち運びやすいように円筒にしたのでキュロス・シリンダー(キュロスの円筒碑文)と呼ばれています。

イランの人々の中では、キュロス2世は、人類史の中で人権の思想を持った最初の人として知られています。しかし皇帝を名乗るシャー(皇帝)・プフラビー時代の1971年、キュロス2世がアケメネス朝の建国紀元前539年から2500年経ったことを祝って、壮大なイラン建国二千五百祭が行われた(日本も似たようなことをしたことがあったが)。この祭典で2億ドルが使われたと言われています。

建国二千五百年を記念して作られた紋章の中心にキュロスの円筒碑文が配されています。

建国二千五百年祭の紋章 wikipediaより
晩餐会のシャー・パフラビー。ケータリングはマキシム・ド・パリ wikipedia より

今では「暴君の浪費の祭典」とされるこのイベントで、広大なペルセポリス宮殿の敷地を使った、音と光のパフォーマンス、ヤニス・クセナキス(1922〜2001)の「ペルセポリスのポリトープ」が演奏されました。

クセナキスがかっこいいと思い、卒論にした当時のことを思い出す。しかし、若かった私はペルセポリスの何を知っていたというのでしょうか。

なおかつ、キュロスの円筒碑文に関するこの歴史を私はこの記事を書くまで知りませんでした…。アケメネス朝があったのはシーラーズ。以降、シーラーズは、観光地としても知られるようになりました。


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