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自立と自由/ガールズバンドクライ10話 (感想#3)

ガールズバンドクライというアニメを見ている。10話は考えさせられることがとても多い回だった。なので10話で感じたことを、繰り返ししつこく投稿しておく。特に「仁菜の自立」については書いておきたい!私には小学生の子供がいるけど、やがて彼も自立してゆくのだろう。あーやだやだ。

#ネタばれあり

●自立より先に自由になった仁菜
10話で「仁菜の父親からの自立」が描かれた。親とすっかり分かり合うのではなく、すれ違ったまま自立してゆく。親からの自立って確かにそういうものだよなぁ、と思った。そして、自立は「自由になること」とは別のことなのだ、ということを改めて思った。
仁菜はイジメを受けたとき、周りから「うまく立ち回ること」を求められ、仁菜は拒否した。桃花の歌に背中を押されて、自由を選び取ったのだ。その後、彼女は自由とかけ離れた不自由な日々を過ごすのだけれど、そのときのことを彼女は姉にこう振り返る。
「私は飛び立った。間違いなく言える。今の私が一番好き。」
彼女は不自由な日常の中でも「自由だった」ということだろう。しかし彼女はこのとき親から自立していない。すくなくとも10話までの仁菜は、精神的に父親に依存していた。だからこそ父親に反発していたのだ。つまり仁菜は「依存したまま」で「自由を手にしていた」。直観的には「自立して自由になる」の方が自然だけど、きっと直観が間違っているのだ。

●自由は抑圧への反抗、自立は自由の代償
仁菜が自立までに経験したのは、こういう順序だろう。
 不条理の押しつけ → 反発 → 自由獲得 → 親の再発見 → 自立
右から逆にたどる。仁菜は父親を再発見することによって自立する。そして父親を再発見したのは、仁菜が自由を獲得したことの「自然な帰結」のように感じる。つまり、すべては「押しつけへの反発」が引き起こした現象のように私には感じられるのだ。もちろん、反発すればかならず自立できる、という話ではない。「桃花の歌」があったから、仁菜はちゃんと反発ができた。そして自由を手に入れることができた。でも、そこから自立に至る物語は、どちらかというと「時が満ちた」という感じがする。誤解を恐れずに言うなら、自由になった仁菜は「自立せざるを得なかった」のではないか。父親からの自立とは、ある意味では父親との決別だ。そしてそれは「自由の代償として仁菜に起こったこと」なのではないか。

●依存先を増やして、決別する自立
自立とは依存の反対語ではない。自立とはむしろ依存先を増やすことだ。依存先が少ないと、それは支配関係になってしまう。自立とは支配からの脱出で、そのためには「依存先を増やすこと」が必要なのだ。(以上、医師 熊谷晋一郎さんの受け売り)
仁菜は川崎で依存先を増やした。それは、たまたまラッキーで良い人に巡り合ったから、というわけじゃない。彼女の「自由への飛翔の力」に惹きつけられた人が集まって、仁菜の依存先になったのだ。川崎で自立できるだけの依存先を手にして仁菜は地元に戻る。そのとき、当然の帰結として待っていたのは「父親の支配」との決別だ。父親は「桃花の歌」を認めて、二人は優しい決別をする。ばいばい、またね。でもそれは残酷な決別であることは変わらない。そしてそれは桃花の歌によって、仁菜が自由へ飛翔をした瞬間に決まってしまっていた「自由の代償」のように見える。でも「その代償を一緒に支払うこと」くらいしか親が子供にできる祝福はないのだろう。

あーやだやだ。

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