『負けヒロインが多すぎる』1話/女子を2種類に分ける独創的定義
アニメ『負けヒロインが多すぎる』1話視聴。何だかすごいぞ、この作品。会話劇として面白すぎる。「負けヒロイン」というテンプレ設定なのに、なぜかすごく独創的でワクワクするような面白さなのだ。「テンプレ」と「独創性」について考えたことをメモっておく。(注意:とてもくだらない内容です)
●視野狭窄と言う武器
1話の中心は、主人公である温水と負けヒロイン八奈見の会話劇だ。絵にかいたような負けヒロインの八奈見は、テンプレの枠に押し込められているのに、常識外れの自由な発想で「突き抜けた輝き」を見せる。私が特に感心したのは、八奈見の「女の子は2種類に分けられるの。幼馴染か、どろぼう猫か」という発言だ。会話劇としての見せ方や、セリフの言い方も秀逸なのだけれど、私が感心したのは、彼女の「視野狭窄」が武器になっていることろだ。彼女はテンプレ負けヒロインという「窮屈な枠」に閉じ込められたことで、視野狭窄した目線から見える「超個人的主観」で世界を再構築して見せる。クラスメイトの檸檬と光希と千早の様子を見て、幼馴染と泥棒猫というテンプレを強引に当てはめてしまう。今の八奈見には、すべてがそのテンプレに押し込められるような気がしている。女子は「幼馴染と泥棒猫」のどっちかしかいない、と半ば本気で思っている。
●「幼馴染と泥棒猫」という二分法で世界を見る
女子は「幼馴染と泥棒猫」のどっちかしかいない。それは人間関係のある部分について本質を突いているような気もする。すべての人間関係は「幼少期からの知人」と「それ以外の知人」に分かれる。後者はいうなれば新参者だ。だから、既存のコミュニティから見ると「泥棒猫的」なのかもしれない。なんだよ、俺の方があいつのことを前から知っているのに。そういう感情はかなり普遍的な感情だろう。知人関係は「幼馴染的関係」と「泥棒猫的関係」に分かれる。一見無茶に見えるこの二分法は、もしかしたら本質的なものなのかもしれない。
●テンプレ的予定調和と独創性の間
テンプレとは、予定調和である。それは本来「ワクワクするような独創性」と対極にあるものだ。多様な世界をテンプレで枠にはめて解釈する行為は、たとえば学歴で人を評価するようなこと。それは私の忌み嫌うもののはずだ。しかし八奈見によるテンプレメガネでの世界の再解釈には「ワクワクする独創性」がある。なぜ予定調和から独創性が生まれるのか。
この作品で描かれる「八奈見の境遇」は予定調和的だ。しかしその境遇から生まれる「八奈見の発想」は、予定調和とは真逆のモノになっている。予定調和に閉じ込められ、でもそれを受け入れられずにもがくとき(私は「負けヒロイン」という人間じゃない)、ひとは「予定調和と真逆のモノ」を生み出すのだろう。八奈見は視野狭窄を武器にして、私の知らない価値観を提示する。女子が「幼馴染と泥棒猫」に分けられるという価値観があるなんて、私は本当に知らなかった。でもそれは「あり得る価値観」だ。視野狭窄で極限まで偏ったとき、ひとは「そんな特殊な価値観」を持つことも可能なのだ。それは人と共有することが難しい価値観だろう。でも価値観は共有するためだけにあるのではない。人と違うことにこそ輝きを持つ価値観というものがある。人間とは、なんと自由ないきものなのだろうか。八奈見の視野狭窄っぷりは、私たちに「人間の自由」を感じさせてくれる。だから、この作品は「進撃の巨人」と同じように「自由と残酷さ」を描いた作品なのかもしれない。そんな過剰な期待を抱かせる第1話だった。(こういう見当違いな結論に至ることができるのも、視野狭窄の力なのだろう)