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進撃の巨人 終劇 /語れないことの凄さ

「進撃の巨人 完結編 後編」を視聴。感じたことをメモしておく。(少しネタバレあり)

この作品を称賛する言葉はたくさんある。私にとって「かなり特別な作品だ」と感じる。いま感じたことをいろいろメモしておきたいと思う。それでも、どうしてもうまく語ることができそうもない。語りたいことが「私にとってちょうどよい言葉」に全然ならない。そして思ったのは、私にとってこの作品の最も称賛すべき点は「うまく語れないこと」そのものにあるのではないか、ということだ。ずいぶんと居直った話なのだけれど、こう考えだしてから私には、もうそうとしか思えなくなっている。

うまく語れない理由はいくつかあるが、そのいちばん大きい理由は、現代社会の問題を「根っこまで、正面から」扱っていることだ。私が語るには問題が熱すぎる。社会問題についても表層的なことなら語りやすい。それは「政治的に正しい言葉」で語ることができるから。しかし、この作品が描いてるのは「人間の根本的なところ」で、そこでは一見善いと思われる「自由」にも、その裏には「暴力」があり、一方で「暴力」にも「それでしか救えないもの」があったりする(もう私はかなりNGなことを言っている)。物語の細部に踏み込んで、そこで感じた事柄について深く語ろうとするなら、「正しくない、誰かを傷つける言葉」を使わないと何も言えないように感じられる。そしてそれらは「今起こっている戦争」と無関係に語ることは難しい。これは私の文章力不足のせいなのだけれど、逆に言うなら「作品が優れていて深みに届いているから、私のような素人には語れなくなっている」ということだと思う。

それでも、語れそうな部分についてだけでもメモしておく。それは「時間について」だ。ユミルは2000年という長い時間を苦しみぬき、エレンによって解放される。この2000年の代償としてでも、もちろん「人類の8割の犠牲」は割に合わない。でも2000年という月日の感覚が、私たちにはうまくつかめないことも確かだ。それはつまり、ロジカルに考えるなら「割に合わない」という感覚すら、正しく持つことはできないということだ。今から100年前には関東大震災があった。1000年前には藤原道長が絶頂だったらしい。この100年と1000年の間には、私の感覚には連続性はない。100年前は私の祖父の時代だ。でも1000年前に生きた人の感覚は、どこまで私の感覚と共通しているのか、まったく実感がない。100年を200年、300年と、少しはさかのぼれる感覚をつかめたら、ユミルの孤独とその代償について、もうすこし語れるようになるのかもしれない。

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