両親

 僕がまだ小学一年生の時に、両親は離婚した。離婚というのは今では珍しくないが、当時は珍しいものだった。学校では数年に一度「●●の家、離婚したらしいよ」とか「離婚しそうなんだって」と、小学生特有のひそひそ話で噂が回ってきた。当然、離婚の意味や意義など小学生にわかるはずもなく、離婚した家の子供は「親が一人いなくなったことに、とても悲しがっていて、ひどく落ち込んでいる人」と勝手に周りから決めつけられるだけだった。当の僕はというと、案外ケロッとしていた。同情以上にできることがない友達は、そんな僕に対しても、できる限りの同情をくれた。

 家から父がいなくなったその日から、僕が悪いことをしたり、学校で怒られて帰ってくる度に母は「そんなんじゃお父さんみたいになるよ」と言うようになった。僕から見たお父さんは、決して悪い人ではなかった。野球をして遊んでくれたり、車でいろんなところへ連れて行ってくれた。パチンコ屋の駐車場で何時間か待たされていたこともあったが、子どもの僕にはパチンコが悪いことという認識もなかった。母が父のことを悪く言った時、必ず僕は母を否定した。「そんなことない。お父さんはいい人だった。」と。

 それから13年、父に会うことはなかった。連絡先もわからず、会う方法もなかった。もう、一生会えなくても別に構わないと思って過ごしていた。しかし、母に突然「父さんに会いたいかい?」と聞かれた。僕は「会いたい」と答えた。なぜそんなことを急に言い出したのかと母に聞くと「もしも父さんが死んだ時、離婚してから一回も父さんに会ってないこと、あんた多分後悔するから」と言って、母は父に連絡をとった。そこで初めて、母がまだ父の連絡先を知ってることを知った。

 翌週、父親を交えて居酒屋に行った。13年ぶりに会った父親の姿は、当時と変わらなかったが、変わり果てていた。ボロボロの靴を履き、話を聞けば家はなく、日払いのバイトみたいなもので食い繋いでいるらしく、なんともホームレスのような見た目をしていた。その姿に悲しくなった。そして、父は僕たちにずっと謝っていた。「本当にごめん。迷惑をかけてしまって本当に悪かった。」と。二時間ほど、多少のお酒を飲み、ご飯を食べた。居酒屋を出て父と解散した後に、僕はぼろぼろと泣いた。しばらく、涙が止まる気配もなかった。理由は父が13年も会ってなかった僕のことを明確に覚えていたからだ。「たかよしは昔から食時の時、その癖出てたよな」だとか「野球でボール投げる時、右にシュートしちゃう癖は治ったか?」だとか、事細かに覚えてくれていた。僕は悲しくてではなく、嬉しくて涙が止まらなかった。そして、父の前で泣けなかったこと、嬉しいと言えなかったこと、素直になれなかったことを少しだけ後悔した。

 それから季節がいくつか変わった頃、僕の携帯に、見知らぬ番号から電話がかかって来た。

「いきなり、申し訳ありません。北海道警察のものです。櫻井さんの携帯であってますか。」

僕「はい。間違い無いです。」

警察「○○さんって知ってますか?」

僕「知ってます・・・。父親ですが、父が何かしちゃいましたか・・・?」

警察「非常に申し上げにくいのですが、札幌のアパートで孤独死をしていたところを発見いたしまして、ご連絡をさせていただきました。」

 父は孤独死をしていた。警察の話によると、あれから生活保護をうけ、アパートを借り、そこでしばらく暮らしていたそうだ。部屋の中にはたくさんのお酒の空き缶が転がっており、大量の飲酒を摂取し腎臓の病気が悪化し、眠ったまま亡くなったらしい。死後三ヶ月以上経過しており、とても遺体を見せられる状態ではないと言っていた。こういった場合、母親とはすでに離婚しているため、血の繋がっている長男に連絡をするのが義務らしく、僕の元へ一番に連絡が来た。僕はすぐ母に連絡をした。そこからは、母と二人でたくさん泣いた。そんな日くらい、たくさん泣いてもいいと思い、目一杯泣いた。涙を止める術もなかった。 

 今思えば、母はきっと離婚した後も、養育費の話や、なんだかんだとやり取りが必要で、父と連絡を取っていたんだろうと思う。母は僕に父を会わせた理由を「もしも父さんが死んだ時、離婚してから一回も父さんに会ってないこと、あんた多分後悔するから」と説明したが、本当は父の最期が近いことをなんとなく予想していて、父にも最後に息子の姿を見せてあげたかったんだと思う。

 昨日、僕は部屋で眠る前にお酒を飲んだ。おそらく、父が亡くなった日と、シチュエーションは限りなく似ていた。ボロアパート、狭い部屋、机の上にお酒、最低限の家具たち、決してオシャレとは言えないところで、一人でお酒を飲んでいる。父は最後にどんなことを思いながら眠ったのかを、僕はそこでぼーっと考えていた。


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