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J⇔M【マンガ感想】演じることの面白さ

J⇔M(ジェイエム)とは奇妙なタイトルですが、JとMが入れ替わることを表しています。
作者は「ヒナまつり」で有名な大武政夫先生です。シュールなギャグが特徴的です。好きな作者なので感想を書きました。

ストーリー概要

幼いころからヤクザ子飼いの殺し屋だった純一は組織を返り討ちにし、今はフリーの殺し屋Jとして活動している。

己の美学としてハードボイルドな自分を演じ続ける彼は、切らしたナッツを買いに行く際、家庭内DVで家出中の少女、恵とごっつんこして入れ替わってしまった。

入れ替わった体を元に戻す方法が分からず、少女の体で生活を余儀なくされたJ改めMは、任務を受けながら、恵として小学校へ通い、モンスター母親に束縛される毎日を送る。

Jにとっては、殺しの任務をするより小学生として生活する方がずっと困難だった。

一方おじさんの体になってしまった恵は、学校でいじめられることもなく、母親にどやされることもなく、Jの自宅でマンガ読んでお菓子食べて悠々自適な毎日を送っている。

元に戻りたくないMと自分の体で仕事を続けたいJの関係性を中心に展開されるシュールギャグ。

感想など

本作は小学生の少女(恵)と、おじさんの殺し屋(純一)の関係性を軸に描かれているギャグ漫画です。
私は本作を、少女とおじさんのアイデンティティ形成物語という形で読ませていただきました。

純一は組織の中で敵を殺す道具として利用されてきましたが、最終的に組織へ逆襲することで自由を手に入れました。
彼は生きるための方法を殺し以外に選べず、彼は殺し以外の仕事ができません。
彼は殺し屋のハードボイルドなイメージに自分を重ね合わせ、それをアイデンティティとしています。

一方恵は社会のルールを守ること、親のいうことを聞くことで自分の居場所を作ってきました。
親からの期待に応えようと勉強を頑張り、授業を真面目に受けて親に叱られまいと毎日を過ごしています。
恵のアイデンティティは母親に認めてもらうことにあるのです。

本作はそんな2人が入れ替わる話です。
肉体が入れ替わったことで、2人の役割が入れ替わります。(厳密には純一が自分と恵の役割両方を負担している訳ですが……)

純一は他人や社会のルールに従うこと、恵を演じることができません。ですが純一は周囲の目によって、小学生としての役割に囚われていきます。
モンスター母親には逆らうことができず、授業で質問に答えられなくて同級生から馬鹿にされても言い返すことができないのです。

純一にとって、「小学生をやること」は、殺しをやるより大変です。
そしてそれは、恵の小学生としての生活の大変さを物語っているでしょう。

恵は言われた通りに自分を演じてきた子ですから、純一になりきることができます。
純一は自分のキャラクターとして「ハードボイルド」を演じていますが、一般的なハードボイルドのイメージに対して、彼の演じるハードボイルドさは少しズレています。

本来の純一より、恵が入れ替わった姿の方が純一がかっこよく、ハードボイルドです。それは純一も認めています。
殺し屋のイメージを体現しており、本当の殺し屋っぽいのです。

恵が入れ替わった純一(恵の姿)に仕事をさせると伝えたときも、仕事の仲介人は小学生が殺し屋をするという荒唐無稽な話を信じこんでしまいました。純一が設定を盛りすぎたせいで、恵は仲介人からはモンスターだと思われていますが……

純一は演技ができない男なので、思ったことを本音で言います。恵の演技や頭の良さに対して素直に賛辞を送ります。
恵は今まで母親の言いつけを守って頑張ってきましたが、ついぞ褒められたり、認められたりすることはありませんでした。
だから純一のリアクションは新鮮で、ガミガミ言わない母親と違って純一といるのは心地が良いのです。

恵は純一のお金でぬいぐるみを買い集め、かわいい部屋着を着て少女漫画を読んでいます。純一に褒められた恵は嬉しがりますが、幼い表情をするので顔に締まりがありません。
入れ替わった2人は「ファンシーなおじさんとキツイ少女」という構図になっていますが、実際のおじさんと少女の中身はこんなもんなんじゃね?と読者に思わせてくれ、構図の面白さがあります。

純一は小学生をしながら、殺し屋稼業をしなくてはならなくなりました。
ですが、普段の行動は母親に束縛されており、色々な制限があります。
殺し屋という社会のルールを逸脱した仕事をしている人間が、他人の親の言いつけに縛られながら殺しをする様子は、滑稽に見えて面白いです。

恵と純一は「何かに囚われている」キャラクターですが、囚われているものが全く別です。
恵はいい子であるが故に周囲の求めに応じようとし、純一は殺し屋としての自分に囚われています。

2人は体が入れ替わったことで、互いに互いの役割を演じなくてはならなくなりました。
でも24時間自分を取り繕うことは難しく、ふとした瞬間に素がでてしまうのです。

求められているイメージと行動にギャップがあるとき、それを第3者として見ている我々ははシュールさを感じます。
「キャラの役割とその逸脱によるシュールな演出」というのは、大武先生の作品に共通する要素だと思います。

本作は、おじさんと少女の入れ替わりを通して、それをギャグとして描いているのだと思いました。
面白かったです。

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