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誰しも人は間違える、その先を生きる

突然ですが、この世に間違えたことの無い、誰も傷付けずに生きてきた人っていないと思うんですよ。私ももちろん。

極論、今私達が息しているだけで誰かは迷惑だと思っているかもしれないし。スパイ映画みたいなるけど。

そうじゃなくても、私達の発した何気ない一言に傷付けられた人は、必ずいるんじゃないかと思うわけです。むしろ《誰も傷付けてない!自信がある!!》という人は、高確率で傷付けていると思う。。なぜなら相手の気持ちが100パーセント理解出来ることなど有り得ないから。。だからこそ優しさとは相手の気持ちや幸福を何とも決めず、考え続け、行動し続けることだと思っています、話逸れてすみません。

大前提、私達は誰か傷付けてしまうとして、大事なのはその先だと思うわけで。絶対に傷付けないようにしよう!と言うのは簡単だけど、人間ふとした瞬間に魔が差したり、誰か悪意のある他人に仕組まれてしまったり、気が付いたら傷付けてしまっていた、なんてこともある。

これは人間関係に限らず。人間はミスを犯す生き物だとか、ハインリッヒの法則だとか、仕事でも労働災害対策の会議やら講習やらでよく言われる。(看護師が現場仕事だから言われるのかもしれない…)もう取り返しのつかないような激ヤバ重大な過ちの下には、山ほどの(比較的)些細な過ちが起きている。だから些細な過ちや未遂(以下ヒヤリハット)を積極的に見つけてレポートにして皆で気を付けていこうね!というムーブメントな訳ですね。人生で一番書いたレポートはヒヤリハットレポート、櫻木です(病院によっては月あたりのノルマの枚数があるよ。。)

詰まる所、大なり小なり人を傷付けてしまうことは避けられない、もしくは既に誰かは傷付けてしまった、そういう認識になります。。でもしょうがない、空の青色が誰かには灰色に映る様に、同じ言葉でも異なる受け止め方をしたり、たまたまその人の抱えている何かに深く刺さったり、避けられないことはあるのだ。。無念。。

だからヒヤリハットレポートのように、まずは一人で(例え同じ過ちであっても)毎回振り返ることは勿論大切だし、何よりもそれを共有して、どこでおかしくなったのか?とか、これからはどう気をつけて行くのか?とかを、自分もいつかorまた同じことをするかも?いやもっとヤバいことするかも?という当事者意識を持って、客観的に対策として整理する時間が大切だと思っている。性格にもよるけど、自分の悪い部分だけを責めてしまって、環境要因とか、本来は相手も悪い部分があるはずなのに、なにも見えなくなっちゃうこと、多々ある。逆も然り、相手が全面的に悪いと思い込んでしまうこともある。大抵は両成敗というか、色んな要因が散らばっている様に思う。

自分が主体の時、冷静になって考えるのは凄く難しい。反対に誰かが主体の時、お手伝いをするのはそこまで難しくない、と思う。私の尊敬する先輩達は共通して、ヒヤリハットレポートを自分以外の4人以上と会議して修正してから私に持ってくるように、と言っていた。客観的な意見って、そう簡単に自分の中から湧かないし、気付かぬ内に文章の節々に恨みつらみが滲み出ていることも多い。。だから積極的に他人にお願いする。でも、そういった指摘される機会を、自ら作りにいくということは会社や仕事の仕組みの中だからできる説はある。友人などの関係においては難しいかもしれない。

この先、どうやって私達は関わっていけば、例えお互いに傷付けても幸せに過ごせるのか。それを当事者同士を含めて、冷静に話し合う機会を設けるのが一番良いけど、ちょっと難しい。だからせめて自分だけでも、関係ない友人何人かに話を聞いてもらって、客観的に全てを振り返り、その上で相手と再度関わって生きていく、そういう努めをやめないでいるのが、誰かと真剣に向き合うってことなのではないか。

もちろん客観的な意見で「もう関わらない方がいいよ」って言われたり、主観的にも「もう関わりたくない」って思うこともあると思う。でもそれは逆に、自分も今後誰かから同じ様に扱われていく、そんな可能性があるんじゃないか。

人は誰しも間違える。あなたが「もう関わりたくない」と思った相手と同じ行動をとる可能性、とってきた可能性はゼロじゃない。今そこで犯した過ちに苦しんでいる(時折へらへらしている)人間に、自分も同じ様に間違えるかもしれないと、そういう視点で向き合うことをやめない。傷つけてしまったことは一緒に振り返るから、その先を一緒に頑張って生きていこう。私はそんな姿勢であり続けたい。



カマたくさんのツイート見て、色々思い出して書いた。リプ欄が優しい世界。誰か一人でも、こうやって思ってくれる人がいたら、救われる命があると信じて。



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