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1月「雛菊の願い」⑬

 涙が溢れて止まらない。すぐにでも二人から離れたいのに、足も動かないし、声も出ない。その間もずっと、彼は涙を流す私に声をかけ続けている。

「姫奈(ひな)ちゃん大丈夫? やっぱりどこか具合が…彼に迎えに来てもらおうか? 志摩なら連絡先知ってるだろう?」

「そりゃ仕事相手だから知ってるけど、そこは当摩が送って行けばいいじゃない。そもそも彼女が泣いてるの、当摩のせいだし」

「…連絡しなくていい。もう別れたの! 大体、なんでいっつもそうなの? 心配なら自分がすればいいじゃないっ…なんでいつも私には謝ってばっかりで…優しそうな顔して気ばっかり遣って、いっつもお店にくるお客さんと全然変わらない! 彼とのことだって応援してるって言いながら、それでもありのままが良いとか、訳わかんないし…そんな風に笑わないでよっっ…嫌なら怒ればいいでしょ、文句があるなら彼女に言うみたいに、はっきり言えばいいじゃない…もういい、自分でも訳わかんないこと言ってるし…なんでこんなにあなたにだけ腹が立つか全然解んないし…もうやだ、帰る…」

 怒りに任せて言いたいことを言ったものの、自分でも途中から何を言いたいのか、何を言っているのかが解らなくなった。それでも勢いは止まらなくて、結局自分勝手に怒るだけ怒って、私は逃げるようにして裸足のまま店から飛び出した。

 駅までの路地を俯きながら歩いていると、途中で夜のお店に向かう煌びやかな女性が目に入った。社会人の彼氏と釣り合う人になるために、あんな風になりたくて頑張っていたのに、そのままで良いと言ってくれる人に出会って最初は戸惑った。でも彼氏のために頑張る私のこともちゃんと見てくれて、大人になろうと背伸びする私のことも、子どものまま奮闘する私のことも、両方を認めてくれる人だったから純粋に嬉しかった。けれど結局彼の隣に立つのも、親しそうに話をするのも大人の女性だった。私とは違う、彼がありのままで居られる存在。その存在を見せつけられて、私はようやく自分の気持ちに気づいたんだ…この気持ちが、ありのままの誰かを好きになるんだってことを。

「痛っ…」

 裸足で歩いていると、行き交う人に何度か視線を向けられた。その視線を避けるように、よそ見をしながら歩いていたら小石を踏んだようで、私はその場でしゃがみ込んだ。横をふと見れば通りに建っている、建物のガラス窓にはうずくまっている私が映り込んでいる。大人の女性には程遠い存在の、ボロボロの姿だ。志摩さんとは全然違う、癇癪を起こしてばかりの、ワガママしか言わないただの子どもだ。なんでこんなことになったんだろう、どうしていつも素直にありがとうと言えなかったんだろう。ただ一言だけで良かったのに、どうして大切な人には大切だと言えないんだろう。

「姫奈ちゃん!」

 うずくまったまま、後悔ばかりが波のように押し寄せてきて、そのまま動けないでいると、突然私を立ち上がらせる強い力に引っ張られた。驚いて声を出すことも出来ずに視線だけを何とか向けると、お店から追いかけてきてくれた彼が居て、包帯を巻いている右手が目に飛び込んできた。

「ちょ…怪我してる手、大丈夫じゃないんでしょ!? 何考えて…」

「大丈夫じゃない!」

 自分の足の痛みも忘れて驚きのあまり涙も止まって、私は怪我している手を自分の体から離そうと触れれば、大丈夫じゃないと声を荒げた彼の言葉に動きを止めた。表情を見れば、それは今までに見せたことのない、怒りのように見えた。荒げられた声に驚いて、自分の手が震えているのかと思えば、震えているのは私が触れた彼の右手だった。

「大丈夫じゃないって…痛いんじゃ…」

「全然大丈夫じゃない。俺が痛いのなんてどうだっていいんだ…姫奈ちゃんが痛い方がずっと嫌だし、傷つく方がずっと…無理だよ、俺。俺は君を傷つけてばかりで…彼と一緒に居る君はいつも笑顔で、そんなの絶対彼と居る方がいいに決まってる。でも彼を見送る姫奈ちゃんはいつも辛そうで、苦しそうで…俺に怒ったり文句言ったりする君の方がずっと自然体に見えて…じゃあそういう存在で居られれば良いかって。それなのに突然裸足で現れて、泣き出したと思えば彼と別れたって…それなのに俺また傷つけて、全然大丈夫じゃないんだ。姫奈ちゃんが大事なのに、俺には傷つけることしか出来ない…それなのに、君が傷つくのは嫌だ。怪我するのも嫌だし…全然大丈夫なんかじゃないんだよ」

 彼は私の手を握ったままその場にしゃがみ込んだ。痛々しい包帯の手が震えていれば、心は苦しくてぎゅっと胸が潰れそうなのに、初めて彼の気持ちを知れば、泣き出したくなるくらいの愛おしさが募ってきて、私はその手を握ったまま自分もしゃがみ込んで、彼に抱きついた。彼は私を抱き留めたまま「え」とか「あの」とか短い言葉を口にして、戸惑っている。それを耳元で聞いていたら可笑しくなって、私は彼の胸の中で笑い出す。

「ふふ…ばかみたい。私も相当だけど、あなたも相当鈍すぎ。私、全然大人になんかなれなくてもいいみたい。ありのままを好きになってくれる人が居れば、その人が大人になろうとする私も子どものままで居る私も、どっちも良いって言ってくれればそれで良かったのに。私のこと傷つけたっていうけど、私だってあなたの前では素直になれないし、傷つけてばかりで…いつも無理して笑顔つくってるのしか見てない。あの人の…志摩さんの前では自然に喋るし笑うんだ…って思ったら、やっぱり大人の女性の方が良いのかって悔しかった。彼氏と別れる時、申し訳なさはあったけど…辛くはなかった。あなたが怪我したって聞いた時の方がずっと辛かった。だからね、私もあなたが大事なんだって気づいたの」

 面と向かって言うのは恥ずかしくて、私は彼の胸に顔を埋めたままで、初めて自分の気持ちを口にした。彼は最後まで何も言わずに聞いてくれて、そっと私を抱き締めてくれたけど、彼は夜のお店の人たちのための花屋の店長だから、顔が知られているみたいで行き交う人たちからヤジが飛んできた。彼はそのヤジに文句を言いながら応戦していたけど、結局私たちは二人とも恥ずかしくなって、お店までの道を歩いて戻った。お店に戻ると志摩さんが留守番していて、手を繋いでいたことに目ざとく反応した。私は彼女に対してどういう反応をすれば良いのかで戸惑っていると、彼は私に申し訳なさそうに口を開いた。

「ええと、あの…姫奈ちゃん。ちゃんと紹介してなかったんだけど、志摩は俺の双子の姉なんだ」

「は? 双子…? 姉…あねー!?」

 双子だと姉だと言われれば確かに名前は似ている。けれど自分が嫉妬していた相手が、彼の身内だと知れば恥ずかしさから、私は顔を覆った。そんな私を見ながら志摩さんは、解っていたと言わんばかりの満面の笑みで私に手を振っていた。

「いやあ、誤解の嫉妬を受けるのはこれが初めてじゃないから気にしなくていいよ。それに今回は、ちゃんと女性として見られたしねー。改めまして、当摩の双子の姉志摩です。結構これでも有名な華道家なんだよ、自分で言うのもなんだけど。姫奈ちゃんの元カレとは、今度駅近くのイベント会場で展示会するんだけど、その取引会社の担当さんなんだ。私もちゃんと話してなかったから、いらぬ誤解と不安にさせて悪かったね。まあこれで当摩の仕事にも身が入るし、今度のイベントも成功してみせるからさ、良かったら二人で会場においで」

 志摩さんは始終満面の笑みで話し終えると、会場設営の準備があるからと言って、帰って行った。私は夕方から開店しているお店の手伝いをしながら、空を見上げた。いつもは気づかなかったけど、空にはいくつもの星が輝いていて、その星空の下に建っている店を見ていつか彼が話していた昔の話を思い出していた。

『どこに居ても、繋がっている空の下で見つけられるように…って意味を込めて、エトワールって名付けられたんだ』

「姫奈ちゃん、もう遅くなるから送ってくよ。配達ついでで悪いけど…」

 星を見上げていると、花束を持った彼が私に声をかけてきた。配達と言っても怪我をしている彼が向かうのは、歩いて行ける距離の夜のお店だ。私は彼と並んで歩きながら、配達の花を半分持った。そして空いた手でしっかりと手を繋ぐ。

「エトワールって良い名前だよね。皆が星空の下であのお店を見つけられるように、私はこの先大人になってどんな場所に居ても、おばあさんの想いを継いだあなたの店があれば、私が帰るのもここでいいんだよね?」

 隣を同じ歩幅で歩く彼を見れば、彼は微笑んで私を見つめた。作り笑いでも哀しそうな笑みでもない笑顔だ。それから配達を終え、家まで送ると言ってくれた彼に、駅までで良いと告げれば、彼はどこに持っていたのか、あの日と同じように私に黄色い雛菊を差し出した。私はその花を、今度は笑顔で彼から受け取った。

「今度は萎れても枯れても、何度でも花を贈るよ。勿論他の花も、君が望むならいくらでも」

「ううん、私…この花意外と気に入ってるの。だから花が長持ちする方法、今度教えてよ」

 駅で話していたら、彼の仕事用のスマホにお店に来たお客さんから電話が入って、彼は慌てて走って店までの道を戻っていく。途中振り返りながら何度も手を振って走る後ろ姿と、空に輝く星を見た後に、私も家までの道を歩く。高いヒールの靴ではない、彼に借りたお店のサンダルを履いて。

 帰宅した私の可笑しな格好に、母は不思議そうに何があったのか何度も訪ねて来たけれど、私は笑って「何にもない」と繰り返した。そして部屋に置いてあったコップに水を入れて、雛菊を挿した。

 今日も雛菊は、ありのままの姿で陽の光を浴びて、私の部屋で咲き続けている。

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