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7月「エーデルワイスの思い出」⑨

 僕は逃げていた。総てを話してしまえば、選択肢は「別れる」の一択しかない…そう解っていたから。彼女にしてみれば、僕は何の関わりもなくて、突然現れた自分の記憶を知るという人間にしか過ぎない。だからいきなり結婚してたとか家族だなんて言われても、理解が追いつかないだろう。これで今の彼女でいいから、もう一度家族としてやり直したいなんて、そんな虫のいい話があっていいわけがなかった。

 僕が別れを告げた後、俯く彼女に視線をそっと向ければ、彼女は俯いた姿勢のまま微動だにしていなかった。最初は僕の話が…記憶を取り戻さなくていいと言っておきながら、自分と僕との関係性を聞かされたことがショックで動けないでいるのかと思った。心配になって、様子を窺おうと彼女に一歩近づく。すると彼女は勢いよく顔を上げた。薄暗くなり始めていて、すぐには彼女の表情が解らなかったので、僕は彼女と対面する距離まで近づいた。そして初めて彼女が泣いているのを知って、僕は驚きのあまり、今度は自分が動けなくなってしまった。

「…んで…何で自分でそうやって、何でもかんでも決めてしまうんですか⁉ 選択肢を私に委ねるって言ったじゃない! 尊重するなんて言ったくせに、自分と私の関係も何もかもを話しておいて、記憶を取り戻さなくていいとか支離滅裂だし、今日私の目の前に現れておいて、もう会わないとかお別れとか…何がしたいの⁉ だったら初めから私に会いに来なければいいじゃない! じゃあ何でわざわざ会いに来たの! 何で…」

 彼女は泣きながら怒りをぶちまけた。僕は泣きながら怒る彼女の言葉を聞きながら、ただ「ごめん」と謝ることしか出来なかった。でも僕が謝れば謝る程、彼女は泣きながら怒った。

「謝ってほしいわけじゃない! 私の幸せが解らないって言ったけど、そんなの花巻さんの奥さんだった頃の私の幸せであって、今の私にだってそんなの解るわけないじゃない! ずっと哀しそうに微笑んで、言いたいことも我慢して、呼び慣れない名前で呼んで…私のためって言いながら、それ全部花巻さんと記憶の中の奥さんのためでしかないじゃない‼ じゃあ、私は何なの? 今こうして一緒にいる私は? 今日1日、必死に手伝ってくれたのも私をいろんな場所に連れて行ってくれたのも、全部私のためじゃないなら、今あなたと向かい合ってる私は何なの⁉ 私は…今の私は、必要ないってこと…?」

 泣きながら怒る彼女が言った、今日1日の僕の行動の総てが自分と、自分の記憶の中の彼女のためだという言葉が、僕の胸に突き刺さる。今の彼女を尊重するなんて体のいいことを並べておいて、その実僕は、自分のことしか考えていなかったことを見透かされて、ひどく心が揺れた。けれど彼女が最後に消え入りそうな声で呟いた言葉に、僕は思わず彼女の体を抱き締めた。

「そんなわけない! こんなこと言う資格なんてないかもしれない。自分と自分の記憶の中の絢のためだと言われて、何にも言い返す言葉すら見つからないダメな男が、どんなこと言ったって、慰めにもならないし信用されないかもしれない。けどっ…僕にとって絢は絢なんだ。記憶を失う前の絢も、今僕の目の前にいる絢も同じ、僕が愛した女性で…必要じゃないなんてこと絶対にない! だけど…絢にとって僕はただ、自分の過去を知る人間でしかないから…僕は…君の夢を2度も奪う人間にはなりたくない。好きだから、愛してるから、だから…」

 自分が必要のない人間だなんて、そんな恐ろしくて哀し過ぎることを言わせているのは僕自身で、僕はそんな自分の罪を逃れる気も言い訳する気もなかったけれど、ただそうじゃないってことを知ってほしくて必死に言葉を並べた。彼女は僕が必死に話している間、僕の腕の中で僕の言葉に耳を傾けてくれていたはずだったのに…。

 最後の言葉を言い終わらない内に、僕の目の前に影が差した。どこでどうなってこうなったのか、自分でも自分の身に何が起きているのか理解不能で、ただ混乱していた。僕の頬に彼女の両手が触れている温もりを感じたのは、何となく憶えている。でも次に起きたことは本当に一瞬のことで、よく解らない。でも確かに触れている。今も彼女の唇が僕の言葉を遮るようにして、僕の唇に触れていた…。

 しばらく僕は為すがままの状態で、彼女の唇を受け止めていた。でも彼女の唇とその温もりが離れて、冷たい潮風を自分の唇に感じたその瞬間、離れていく彼女を逃がすまいと、僕は自分から離れていく彼女の後頭部をがっしりと自分に引き寄せて、噛みつくようにキスをした。久しぶりの彼女の体温を直に感じて、何とか抑え込んでいた理性が切れてしまったのかと思うくらい、僕は彼女の唇をただ奪った。自分の中にしまい込んでいた想いも、彼女への溢れる想いも、自分自身に対する罪悪感も捨てて、ありったけの想いを込めて自分の熱を彼女に注ぎ込む。彼女は途中何度か苦しそうにしながら、何とか息を継いでいたけど、その息も奪うくらい僕は彼女に口づけた。

 どこからか音楽が耳に入ってくる。次第に音量が大きくなっていくにつれて、僕は殴られたように現実に引き戻された。彼女をそっと放せば、彼女は自分のポケットからスマホを取り出して、少し離れたところで電話に出た。会話の内容は聞き取れないけれど、途中で彼女が何度か息継ぎをしているのを見て、僕は自分がしでかしたことの重大さを知った。

 ぷっつんした。どうしてそうなったのか、僕が勝手に見た自分に都合のいい夢だったのか、彼女にキスされたと思った。しかもそれだけでは飽き足らず、僕は自分から彼女の唇を、今度は奪ったんだ。それも何度も、彼女が抵抗出来ないくらい何度も…だ。ああ、終わった。これで本当に何もかも終わった。その場で膝をつき、項垂れるようにして僕は何度も頭を砂浜にぶつけた。しかし砂はサラサラとしている上柔らかさがあって、何の痛みも襲ってこない。それでも繰り返し頭を砂浜にぶつけていると、電話が終わったのか、彼女が僕の腕を取って制止した。

「え、ちょっと! 何やってるんですか、砂まみれになってるし…今度は何なんですか⁉」

「…ほんとにごめん。その…無理やり奪うような…あの、抵抗も出来ないくらいに…ホントに申し訳ない。ダメな男以上にただの犯罪者だ…僕はなんて最低な男なんだ…どう謝ればいいのか、いや謝ったところで…」

 答えの出ない堂々巡りな謝罪に、彼女がこほんと咳払いを一つする。僕が申し訳なさそうな視線を向けると、彼女が言いにくそうに口を開いた。

「…最初にしたのは私ですから、その…程度はともかく、きっかけを作ったのは私自身ですし、それに…その…抵抗出来ないって言ったけど、そうじゃなくて…しなかったんです。私も望んでいたから…」

「へ? どういうこと?」

 彼女の言葉に素っ頓狂な声をあげて説明を求めると、彼女はなぜだか怒って車へと歩いていく。僕は状況が呑み込めず、立ち尽くしたままで彼女を見送っていると、振り返った彼女が再び僕の元へ歩いてやってくる。

「ほら、もう帰りますよ! お店に戻らないと、店長が心配して電話かけてきたんですから。今日は花巻さんが運転手なんですからね」

 訳が解らなくて彼女に促されるまま歩き出す僕の手を、彼女は少し怒りながら自分の手と重ねた。

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