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言葉の力を信じるということ

先日、父と大論争しました。その原因は、言葉に対する価値観の大きな違いでした。大切にしている価値観が違ったのです。

それがきっかけでわたしは、自分が普段から、相手の気持ちを推し量り、どうやってアプローチするか考えたうえで、言葉を選んでいるんだと実感しました。

わたしは以前外国語学を専攻し、4年間コミュニケーションと異文化について学んできました。

そこで学んだことの一つは、

実質的にほぼ同じ意味の言葉でも、言い方・言い回し・語尾・表現の違いで相手の考え・気持ちに与える影響は大きく変わり得るということです。

たとえば中国語で「OK」とか「わかった」と日本語に訳せる言葉があります。「好啊」、「可以啊」等です。

前者の「好啊」は、乗り気な気持ちで引き受ける・了承する・同意するときに使います。(ある台湾人の友人によると)

後者の「可以啊」は、あまり乗り気ではなく、ちょっと消極的に引き受ける・了承する・同意するときに使います。(こちらもある台湾人の友人によると)

もし中国や台湾の友人の誰かに映画に行きましょうと誘われて、自分は乗り気なのに後者の「可以啊」を使って答えていたら?

もしかしたら、相手は少し気分が悪いか、心配な気持ちになるかもしれません。

もちろん外国語学習者は間違いをするもので、100パーセントネイティブスピーカーの感覚をつかみ、言葉選びをしなければならないことはありません。恐らく相手のネイティブスピーカーも、外国語学習者の話し方や性格で多少のニュアンスを間違えても伝えたい事を判断してくれます。

ですが、わたしは外国語学習が特に好きなので、「できれば」そのような細かなニュアンスを1つ1つ学習していき、ネイティブスピーカーに要らない心配や不信感を抱かれないようにコミュニケーションをとれるよう、精進していきたいです。

だからわたしは、言葉を本当に大切に生きているんだと思いました

言葉には力があります。

あと1分で死のうと思っている人にも、もしかしてその人の愛する人が「死なないで」と言ったら、死ぬのをやめて、生きる事を選択し、10年後心から笑っている未来があるかもしれない。

小学校の頃いじめられた子は、その時いじめっ子に言われたひどい言葉は恐らくなかなか忘れず、一生生きていく。(そしていじめっ子はその発言をすぐに忘れがち)

わたしも、人が言っていた言葉ってなかなか忘れられなくて、小学3年の時に親に言われた言葉、いつかわからないけど亡き祖父がわたしにしてくれた話 等々 沢山覚えています

逆に自分が小学校の頃友達にかけた言葉で今でもずっと後悔しているものもあります。本当にごめんなさいって心の中で思いながら、今でもその友達と仲良くできている奇跡に感謝をしています。

そんな風に、わたしは言葉と一生向き合っていくのかもしれません。

そんな生き方も悪くないかなって思います。

最初に戻りますが、わたしのその価値観と父の価値観が違ったんだと思います。「言葉」を重視するかどうか。「言葉」をどうとらえるか。

論争中、わたしが社会に出たときのことを心配した父曰く、「言葉なんか詐欺師がいるように、信じてはいけない。言葉でなくて行動で判断しろ」

とのことです。この言葉自体はわたしもかなり同意しています。

恋愛において、わたしも行動の方が信じられるかな、と思ったり。

でも父によると、その言葉の背景として言葉と気持ちよりも伝える内容の正しさ、言葉は厳しくても伝わるかどうか が大事だということです。

わたしは、言葉には大きな可能性があると信じています。

言葉は、じっくり選べば「ちゃんと気持ちを込めて伝える」「わかりやすく論理的に伝える」「相手の気持ちを必要以上に傷つけない」

この3つを両立できると思います。

この3つを含んだ伝え方、これが仕事や家庭、友達関係、恋愛において出来る様な、そんな人になりたいと思いました。

今日はこんなお話でした。

もし感想があれば聴かせてくださいね。

いつも読んでくださって、誠にありがとうございます。



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