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『大室家 dear sisters/dear friends』本編終了後の違和感の正体

先日、『大室家 dear sisters/dear friends』(以下、『大室家』と呼ぶ)というアニメ映画を観に行った。『大室家』という作品はコミック百合姫連載の『ゆるゆり』のスピンオフ作品である。元々、私は『ゆるゆり』などといったいわゆる「日常系アニメ」と呼ばれるアニメを嗜好していて、その流れで本作を鑑賞した(『ゆるゆり』は「日常系アニメ」というよりも「百合アニメ」であるという意見があるかもしれないが、個人的には原作3巻で作中がサザエさん時空であることを確定させたことから百合より日常系要素を意識して読んでいる。)

『大室家』の感想はというと、個人的に想像以上の出来だと感じた。そもそも「日常系アニメ」の映画自体、派手さがなく迫力に欠けるものであることは明白であるし、お金を払って観に行ってよかった!となるとは到底思えないだろうと考えていた。
しかし、実際は映画館という環境の性質上、作品世界との距離が(普段自宅のテレビやタブレットで観るより)近い状態で「日常系アニメ」を観ることが想定より良く、日常系に求められる癒しといった「サプリメント」的要素を強く感じられた。

特に作中の冒頭で流れるopは現実と作品世界との距離を近づけることに最も大きな役割をしていると感じた。
そのopは実写背景 × アニメキャラ(櫻子&向日葵)という形式で、長回しや実写映画さながらのカメラワークにより現実から作品世界へ、3次元から2次元へと繋ぐ架け橋のような役割があると感じた(しかし、後章のopでは謎のカットインが入り、元のopが持っていた役割が薄まっていたのが残念だが)。

実際のopのワンシーン

(↑詳しくopの演出について語られている素晴らしい記事)

本題

ここからが本題だ。
とても興味深いと感じたのが本編終了後、口コミで本作を広めてもらう目的だと思うのだが、各キャラクターのインタビュー風映像が流れた。
(↓実際のインタビュー映像の一部)

そしてインタビューが終わったあと、登場人物が口をそろえて驚くべき言葉を発する。

「大室家への応援ありがとうございました!これからもよろしくお願いします!」

違和感の正体

このようなメタ発言はアニメにとって特段珍しいものではなく、むしろよく見られる演出だろう。
例えば、今期だと『しかのこのこのここしたんたん』はメタ発言を(面白いかは置いといて)ギャグとして多用しているアニメであるし、日常系でも先述した『ゆるゆり』、いきなりedに入るといった演出の『ぼっち・ざ・ろっく!』など……挙げたらキリがないほどアニメには「メタ要素」が含まれている。
しかし、そんな中『大室家』の「大室家への応援ありがとうございました!」というメタ的な発言はとても違和感があるように映る。
その”違和感”の正体を「日常系アニメ」に共通する特徴から導く、そのことが本論の目的である。
では本題に移ろう。

「日常系アニメ」における「無時間性」

まず、「日常系アニメ」を嗜好するアニメ視聴者は何を求め、実際に何が与えられてきたのだろうか。回答に移る前に、前提として日常系を定義づけるうえで中心的な特徴として「無時間性」が挙げられる。
「日常系アニメ」の特徴として小森健太朗は以下の5点を挙げている。

未成年(主に中高生、たまに小学生)の女の子たち四人か五人(おお まかに数人増えることもある)がメイン。
・ なにかの目標に向かって邁進したり、なにかの達成をしたりすること がない。
・ メインキャラは、性的なくすぐりが多少あってもいいが、基本的に恋愛からは隔離されている。
・ メインキャラの家族が描かれることもあるが、家族ドラマが主題には ならない。
・過度の不幸、悲惨な事態はいれない。

小森健太朗『神、さもなくば残念。』

「恋愛や、目標への邁進、目標達成、卒業や進学と言った〈時間〉を 想起させる要素を排除することで〈空気系(日常系)〉は成立している」とし、そうした特徴をまとめて「無時間性」と定義した。
こうした特徴に「大室家」は当てはまるものだと言えるだろう。
では、女の子中心で「無時間性」が特徴の「日常系アニメ」をオタクたちは嗜好するのだろうか。
評論家の宇野常寛は「日常系アニメ」は女の子(キャラクター)の「萌え」が少女を所有する快楽であると述べる。しかし、それはアイデンティティ不安を解消するための女性「所有」とは異なり、「性暴力的」なものを失っていると述べる。

「萌え一-所有の快楽を追求する上で、ポストモダン的なアイデンティティ不安のはけロという側面は、その純化のために排除されたことになる。何かのために少女を所有するのではなく、少女を所有すること自体が目的であり、快楽なのだ。そしてその快楽を追求した結果、空気系の萌え四コマ作品は男性の視点を物語世界から排除してしまうという奇妙な転倒を抱えることになった。つまり消費社会下におけるさまよえる男性性の軟着陸点、ロマンティックな自分探しの回路という側面が強かった「萌え」は、空気系の時代を迎えることによって淡泊な快楽供給源、サプリメントと化したとも言えるだろう。「空気系」によって「萌え」は(性暴力的に確保されるマッチョな)ロマンティシズムを喪ったのだ。

宇野常寛「政治と文学の再設定」、「五章「空気系」と疑似同性愛的コミュニケーション」(https://note.com/wakusei2nd/n/nb1b919723f4c?magazine_key=m497a731f5c41

以上のことを踏まえると『大室家』本編は「無時間性」という特徴を持ち、「目標」よりは女の子たちの「日常」にフォーカスすることで視聴者の「少女を所有する快楽」を満たす目的があると言えるだろう。

「無時間性」の破壊

しかし、「大室家への応援ありがとうございました!これからもよろしくお願いします!」は前述した「無時間性」を破壊するものとして機能したため違和感が生じたのだと私は考える。
理由として、作中ではキャラクターはメタ発言を一切しない。しかし、本編終了後、急にメタ発言をする。そうすることで二次元の世界に没入していた視聴者は急に俯瞰した視点に移ることを要求される。
そこに花束を持ったキャラクターが手を振り「応援ありがとうございました!」と言う。「花束」や「手を振る」という要素は明らかに物語を「終わり」を意識させるものとなっている。(例えるなら卒業式や転校する子を見送るといったイメージが湧くと思う。)
そうした「終わり」のイメージが「無時間性」という作品の特徴に「終わり」があった、言い換えるなら「(有限の)時間性」が存在していたと錯覚させ、違和感を生む結果になったのだと思う。

このイラストを背景に「大室家への応援ありがとうございました!」と言う。イラストは明らかに「終わり」を意識したものとなっている。

結論

以上のことから結論は、”違和感”の正体は、急に用いられた「終わり」を意識させるメタ発言が『大室家』が有する「無時間性」という特徴を破壊してしまったことによるものだと考えた。

とは言っても実際にサブスク等で配信される場合は「大室家への応援ありがとうございました!」の部分はカットされるだろうし、BDが発売されたとしても、あくまで「特典映像」として扱われるだろう。
しかし、たとえ少しの間だけだったとしても、このような「日常系アニメ」でありながらそれを逸脱していた状況が存在していたことを伝えたかったのだ。
この内容で「日常系アニメ」に新しい視点・考えが生まれたとも考えられないが、これを読んだ人が少しでも「なるほど!」「考えてアニメを見るって面白い!」などと思えたならとても嬉しい。


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