勉強 今日はテスト返却があった。昨日テストが終わったばっかりなのにすぐ返すから、既にもっと前にテストが終わっていたような感覚がした。そう、つい昨日まで必死に勉強してた! 肝心の結果は散々で、逆に笑えてくる。 今回のテストではっきりしたことは、私は短期間に必死に覚えることが得意じゃないらしい。勉強中は「なんで自分は勉強ができないか」について考えてしまうし、自分の暗記力のなさに絶望してしまう。それでもやらなければテストはできないからやり続けるんだけど。 勉強には「考えるための
テスト1日目が終わった!真面目に勉強したおかげかかなり出来が良かったと思う。テスト期間は1秒もスマホを見てないおかげか、単純に物量で押し切った感あります。 私の勉強サイクルは学校→図書館 or カフェという流れなのですが、勉強が一通り終わり、家に帰るまであまりにも娯楽がない!(ちなみに家帰ってからnoteに反応してくれた人のツイートをちょっとだけ見てます、本当にありがとうございます泣)娯楽がないと、勉強や自分、学校、友達についてずっと悩んで耐えられない。そのフラストレーション
これは村上春樹のおそらく最も有名な著作「ノルウェイの森」のラストシーンだ。このシーンは無数の解釈の余地があるし、それゆえに底の見えない魅力のある文章だと思う。 「あなた、今どこにいるの?」 私は今、ドトールにいる。2日後に迫ったテスト勉強をするためである。 勉強は嫌いだ。「勉強」という語に「考える」ようなニュアンスを含みながら、ふたを開けてみると思考停止で暗記しているだけで、その状況を誰も疑おうとしない。まるで勉強することが大人になるとでも言いたげなように。 そんな勉強へ
「勉強」に人生を破壊されている。 学校で教える勉強とは違う、本質的な意味での「勉強」が周囲との違和感を際立たせる。多分私は「勉強」に魅せられてしまったのだろう。(千葉雅也「勉強の哲学」参照!)考えることの楽しさ、ソクラテス的に言えば「知を愛する」ことーーが日常生活を侵食していってる。 学校の友達は勉強と日常(会話)を切り分けて考えている。授業があり、10分休みがあり、また授業……といったように。しかし、私は「勉強」と日常が地続きに存在していて、授業も会話においても新しい発見が
午前4時、急にこみあげてきた頭痛と吐き気で目を覚ました。ベット横に充電していたスマホを持ち、そのままトイレで吐き気が治まるのを待った。Twitterを見た。昨日上げた「夏休み読んだ本」ツイートが40いいねくらいだった。でも、繋がっている高校の友達は1人しかいいねしてなく、やっぱり自慢してるみたいで気に食わないよな、と思った。ツイ消ししようと思ったけれど、まだいいねつくかな、と邪な承認欲求が頭をよぎり、そのまま放置した。まだ40いいねで止まってる。 吐き気が治まるのを待ってて
先日、『大室家 dear sisters/dear friends』(以下、『大室家』と呼ぶ)というアニメ映画を観に行った。『大室家』という作品はコミック百合姫連載の『ゆるゆり』のスピンオフ作品である。元々、私は『ゆるゆり』などといったいわゆる「日常系アニメ」と呼ばれるアニメを嗜好していて、その流れで本作を鑑賞した(『ゆるゆり』は「日常系アニメ」というよりも「百合アニメ」であるという意見があるかもしれないが、個人的には原作3巻で作中がサザエさん時空であることを確定させたことか