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陸地は少し泳ぎにくいので

 海という生まれた場所を飛び出すことは、わたくしたち生き物にとって勇気の必要な決断ではありましたが、しかしわたくしたちの胸はあの時確かに高鳴っていました。
 それまで「ひれ」と呼ばれていたそれを大地に着ければそれは確かに「肢」となり、「歩く」という行為が生まれます。その肢を使ってさらにめいめいは、木を登ってみたり、空を飛んでみたり、なんとわざわざ無くしてみたりと、思い思いに大地という場所を楽しみました。海という場所もなんとも様々な生き物であふれてはいましたが、大地という場所も負けず劣らず、カラフルな遺伝子によって彩られていったのです。
 え? わたくしですか?
 わたくしは、わたくしで、また変わったことをしてしまいました。
 少し、ほんの少し、太りすぎました。太りすぎた結果自分の重さに耐えきれなくなって、また、海に舞い戻ってきてしまったのです。えぇ、そう、わたくし実はもう大地には住んでおりません。鼻の穴から時々海の水を噴き出して、魚どもに笑われる日々を送っています。
 申し遅れました。わたくし、シロナガスクジラと呼ばれるものです。

 いくらまた海へ舞い戻ろうといえど、わたくし哺乳類には変わりません。寒さには強いので、よくアラスカやら南極やらでも悠々自適に泳いでおりました。
 そんな凍てつく海に、わたくし以上の変わり者がやってきたのは、だいぶ昔。そう、わたくしが今のクジラらしい姿になった頃のことでございました。
 そいつは何と、鳥類だというのに、空を飛ぶということをしないのです。
 わたくしに負けず劣らずどっぷりとした身体を持つそいつは、頼りなくよちよちと氷の上を歩きます。それがあまりにも転びそうな歩き方なので、わたくしは思わず尋ねてしまいました。どうして空を飛ばないの、と。あなたのその翼とやらは飛ぶためのものではないのかしら、と。
 その鳥はびっくりしたようにわたくしを見て、「君にそんなことを言われるとは思わなかった」と、呟きました。
 わたくしは自分の姿を見返して、恥ずかしくなりました。
確かにわたくしの肢も泳ぐために進化して、すっかりヒレのような形をしております。なんてことを。わたくしは自分のことを棚に上げてしまいました。
 自己嫌悪のあまり深海に潜ろうとしたわたくしを見て、「いや、いや、いいんだ。気にしていない」とその鳥は笑い飛ばしました。
「お互いに、この冷たい海にふさわしい風に生きているだけさ」
 そう言って彼はちゃぽんと海に飛び込み、ぐん、と泳ぎ始めました。
 私は息を飲むしかありません。その姿のなんと美しいこと!
 その鳥は空を飛べない代わりに、誰よりも早く泳ぐ鳥であるようです。わたくしが名前を尋ねると、彼は「ペンギン」と名乗りました。

 わたくしとペンギンが出会ってから五千万年ほど経った頃、ヒトというこれまた変わった哺乳類が生まれました。そのヒトとやらは自分の身体を恥ずかしいと言って隠し、食べるわけでもない同族をたくさん殺すのです。
 なにやら変わったやつができあがったなぁとペンギンとさらに一億年ほど笑いあっていると、ヒトはまた変わったことをし始めました。
 何と、わたくしたちに、哺乳類らしく、鳥類らしく生きる権利を与える、というのです。
「権利って何だい。僕らはそんなものがなくったって好きにやるさ」
 そういうペンギンの前でそのヒトは、「人工飛翔機」とやらを広げて見せました。
「これがあれば、ペンギンであっても空を飛ぶことができます」
「ほう」
「鳥類として生まれたからには、あなたたちは空を飛ぶ権利を有していなければなりません。クジラに関してもそうです。哺乳類として生まれたからには、海でしか生きられないということは誠にかわいそうです。わたしたちは、クジラの身体を陸上で支えて生かせるための機械も作りあげました」
 わたくしとペンギンは思わず、顔を見合わせました。
 そのあと、わたくしは遠くに見える水平線——いや、その先にある大地を見つめました。ペンギンが見上げたのは、もちろん空です。
 地上に足を踏み入れた日の胸の高鳴りが、少しだけ、わたくしの心を刺しました。
 それはおそらくペンギンも同じだったのでしょう。空を見上げたまま、飛べない自分を呪うかのように翼をばたりと動かして見せました。

 そんなこんなで、私は陸地へ、ペンギンは空へと一度住んでみることになりました。——と、言いたいところなのですが、私たちが氷の乗った海で再会するまで五百年とかかりませんでした。あまりの早さに、お互いにげらげらと笑ってしまったほどです。
「君は鼻に水が入る心配をしなくていい生活を送るんじゃなかったのか?」
「皮膚が乾かないかの心配で、それどころじゃなかったのよ。あなたこそ、転んで顎を打たなくていい生活を送るんじゃなかったのかしら」
「空は、地面で頭は打たないけれど、ときどき飛行機とかいう鉄の鳥にぶつかるんだよ。あいつなんか鉄でできてるんだぜ? ぶつかったら、たまったもんじゃない」
 鉄の鳥! 私は恐怖に震えあがり、代わりに地上にいる新幹線とかいうおそろしい何かの話を返しました。
 そいつは怖いな、それは大変だ、とお互いに言いあいながら、わたくしたちは冷たい海の中を泳ぎました。あまりにも冷たくてあまりにも重たくて、あまりにも快適な水でございました。
 ぱしゃりと海に飛びこんで魚をくわえ、氷の上で身震いをするペンギンの姿は、太陽に照らされて今日も幸せそうでございます。


辺川銀さん(http://penkawa-gin.com/)(https://twitter.com/penkawa_gin)とお互いに話を聞きあってショートショートを書くという試みをやらせていただきました!



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