聖橋から放る
お茶の水駅を出て聖橋を渡る。カメラを構えて写真を撮ろうとしている人が何人かいる。神田川の上、総武線の各駅停車と快速、それに真っ赤な丸の内線が交差する、その一瞬をカメラに収めようとしているんだろう。
私が聖橋を渡るときに必ず思い出すのは「檸檬」だ。梶井基次郎ではなく、さだまさしの「檸檬」。むかし、さださんを好きな友人がいてアルバムを借りた。それが初期の3枚。『帰去来』『風見鶏』『私歌集』だった。
後にも先にも、その3枚しか聴いたことがないのであるが、当時、カセットテープに録音して何度も聴いていた。どれも情景の浮かぶ歌詞が好きだった。
ふと思いついて検索したら、さださんのオフィシャルYouTubeチャンネルで聴けるではないですか! というわけで、ウゥーン10年ぶりに『私歌集』の中の「檸檬」を聴きながら書いている。最初、なんだか違うと思ったら、それはシングルバージョンで、私が好きだったのはアルバムバージョンだということも初めて知った。
聖橋の上に立つとき、自分も檸檬を遠くへ放ったことがあったような気がしてくるのだが、わざわざレモンを買って来るはずもないから、ただ、何度も思い浮かべた情景なんだろう。
「捨て去る時にはこうしてできるだけ遠くへ投げ上げるものよ」という彼女(君)は、別れを予感していたんだろうか。遠くへ投げ上げれば、放物線を描いて落ちて行く檸檬を少し長く目で追うことができる。そうして落ちて行く様を、最後までちゃんと見届けろというのか、それともただ単に、できるだけ遠くへ潔く投げ捨てろということなのか。
2番になると、聖橋から投げられるのは「喰べかけの檸檬」ではなく「喰べかけの夢」で、各駅停車の檸檬色がそれを噛み砕く。
「消え去る時にはこうしてあっけなく 静かに堕ちていくものよ」という終わり方は、少し怖い。