BFC4落選展感想 11 - 15

はじめに

 くりかえしとなります。
「#BFC4落選展」のタグがつけられた作品にのみ感想をつけていきます。それ以外の作品はどのような存在であれ無視します。読まれたいと願うブンゲイファイターの心にのみ正対していきたいからです。
 本稿はその性質上、ふんだんにネタバレを含みます。ですので、まずは落選展作品の内容をよく読んでから目を通していただけるとうれしいです。それが作者の方々のためにもなると思いますので。




川合大祐「ザ・ザ——川柳一一二句」

 最初にお断りしておくと、川柳のことはまるでわかりません。それだけでnot for meなんだけど、それじゃあ自分が成長しない。だからわからんものに挑む。
 とはいえ、この作品を読んだ時の第一印象は不親切というものだった。この作品群は文芸的・芸術的外部知識にビジョンを依存している箇所が多く、どのように読めばよいのかという補助線も引かれていない。そのため作品自体がナンセンスに閉じてしまっているように見える。その上、数が非常に多いというのもこの際は問題だ。ひとつひとつの句を解釈しながら先に進むというのはとてつもない負担を強いられる。一周しても頭のなかに浮かぶのはサブカル的な単語などから想起されるナンセンスな情景ばかり。二周目に突入して最初の五句で心をへし折られていまに至る。
 決まった定型のうえでおこなわれる文芸は、その流儀を守ることによって逆に攻めた内容を描写できるというのが利点だと思う。サラリーマン川柳なんかはその典型で、価値観のベースが明示されているので普遍的な句や現代だからこそ理解できる時代性などを付加できる。そうした他の作品に対してこの句集がどう立ち向かっているのか。そのヒントくらいはどこかに残してほしかったな。そうすれば無学者でもわかりやすい作品になるから。
 二度目になるけれど、この作品はnot for meです。なにが書いてあるのかわかりません。

𝕤𝕒𝕤𝕒𝕞𝕠𝕞𝕠「「つとむくん」と「こうじさん」と「さえきさん」と「あきひとくん」と「いちえださん」と「あきこちゃん」と「ひろと」と「さなえさん」と「ピーター」と「ミカエルさま」と……」

 やたら長い題名が威圧的なこの作品。内容もその題名に恥じず威圧的で圧倒的な文字の壁を為している。それもそのはず、この作品は延々と積読を繰り返して家に積読タワーを作り出している住人の物語だからだ。
 みょうちきりんな話ではあるが、各々の積読タワーに性格をもたせ、それらと対話することで主人公がどんな存在なのかを彫り出していく作業をしているようにも思え、そういう意味では文芸しようとしていることがわかる。
 いうて、この作品の骨子はただそれだけということも言えて、二度三度読んでその味を楽しみたいというタイプの作品ではなかった。積読タワーと対話しているなかなかやばいひとの物語だからな……。
 おもしろいかおもしろくないかでいえばおもしろくない。アイディア一本勝負感が否めず、そのアイディアから考えればオチも普通という印象だ。カクヨムの仕様上章題をつけなければならないのだが、そこで種明かしをしてしまっているので内容不明な物語を読もうとする時に発生するワクワク感みたいなものも一瞬で終わってしまう。
 ちょっと私に合ってないんじゃないかなという気もしてくるな。うん。

渋皮ヨロイ「チキンリンチ」

 BFC作品はよくよく不思議暴力作品と出くわす。この作品をばっと読んでみると、妻がチキンの人形で大暴れしていて、なぜ大暴れしているかというとテレビとそこから流れ込んでくる情報による不安によってストレスを受けているからだ。チキンリンチはこうした精神的問題に対処するために行われると読める。
※精神的な不均衡が発生したきっかけは娘が引っ越ししたあと、引っ越し先の区内で通り魔殺人が起きたという情報が飛び込んできたことにある。なのでテレビ自体が問題というよりかは、曖昧な情報をセンセーショナルに伝えてくる媒体すべてがそれに当てはまる。それがたまたま今回はテレビだったというだけだ。
 この物語ではそのストレス要因を根本からなくすため、主人公がテレビを叩き壊す。それでも妻は相変わらずチキンをいじめる。なんか恨みでもあるんか。主人公はその暴力のとばっちりを受けてしまう。その怒りを妻に向けそうになる一行のさりげなさはこの作品のハイライトだ。
 最後には主人公も妻に乗っかるが、彼は物事を解決しようとするときに加減を知らない。というわけで火にかける。妻の台詞は鶏油感あったな……。
 作品としてなにを伝えたいのかはいまいちわかっていない。ただ、鶏と妻の様子を描くためにはもっと削ぎ落とせる贅肉があったかもな、という感じはした。なのでどこかしらゆるいところがあって、そのゆるさによって作品の本質が剥き出しになっていないのだろう、くらいの憶測をしている。

牧野楠葉「フェイシズ」

 まず本題からまったく関係ないことを言う。レビューボタン光りすぎでワロタ。どんだけレビューさせたいねんな。それと、私はこの作者さんと波長がまるで合ってない。だから正しい評価というやつはできない。
 さて、第一行目から作品自体がゆるい。でたらめという但し書きは必要だったんだろうか……。また、この作品からはわざとらしく文芸しようとしてるなという感じがすごくした。エロース的な言葉を直接的に表現すればなんでも文学みたいな感じは私にとってすごく嫌いなもののひとつだ。だからあらすじをここで書きたいとは思わない。
 フェイシズという言葉は効果的に使われている。どういう情景が描かれているのかを説明するときにフェイシズという単語は便利だ。また、それをくりかえしたあとに、最後は単語本来の意味に戻って顔という意味で連呼するというのも、なるほどなという感じがした。技をかけようとしてきているのは伝わってくる。
 ところで、フェイシズというと映画にもそういう題名のものがある。ジョン・カサヴェテス監督のフェイシズという作品は登場人物の顔をクローズアップするというのが当時としては斬新な手法として評価されていたらしい。という知識をネットから調達してくると、一行目にあるわざとらしい出鱈目という単語はまるっきりでたらめというわけではなく、いっそこの作品は映画的知識を下敷きに書かれたオマージュ的な作品として読んだ方がいいのかもしれんな、という感想におちついた。なにせ主人公が映画配給会社の社長なのだものな。あからさまにやってると考えた方がしっくりくる。

加糖(丞)「未遂」

 随分哀しい話を書くんだな。都会の喪失感みたいなものがそうさせるんでしょうね。(いえ、違います)
 未遂、鯉、コルクのブイという三つのキーワードを軸に読んでいくと「理想通りにならない」「自己投影先」「弱い自分」というものが滲み出てくる。汚濁した環境でも鯉は余裕で生きていけるのだが、そこを綺麗にしようとしているときの主人公の態度がこの物語のなかにおける主人公のありかたを雄弁に語っている

「いよいよ取り返しのつかないことになった」

そう顔を青くしたのは一瞬のこと。捨てに行くのも億劫だったし何より鯉は可哀想に見えたから、腹を括って池を掃除してみた。長いこと自分の部屋さえ片付けていなかったというのに、今回は随分と手際よくこなせてしまって驚く。
鯉のいる池だから、というのは少し乱暴だろう。

 私が池の水に決して触れないよう足を踏ん張りながら藻をさらう間も、鯉は悠々自適に尾ひれをたなびかせている。

加糖(丞)「未遂」

 主人公は汚れることを嫌いながら鯉の池の掃除をしてやっている。このことから、主人公は清濁併せのむことのできない弱さを持った理想主義的な人物だということがわかる。だがコルクのブイを抱えて眠っているように、現実はそうそううまくはいかないので挫折してもいる。だから最後の文章が次のように結ばれるのだ。

 今日か、あるいは明日のこと。誰のものでもないこの土地に、きっとぴかぴかの池だけが残されている。

加糖(丞)「未遂」

 理想的な環境には誰もいない。だからそういう世界はこの世の中のどこにも具体的に存在することはできないのだ、とでもいうかのように。

 なお、この作品は行頭スペースがあったりなかったりと文章作法がふわっふわで、そりゃどうなんだ……と思うところありけり。意図的にそういう文体にしているのかとも思ったが、単に適当にコピったらレイアウトが崩れただけなうんちゃうかという疑いの方が濃い。特になにか効果を感じたわけでもないので、単純な不徹底にしか見えないということだ。こういうのは黙っておくより伝えておくことにする。


 本稿は以上です。
 お読みいただきましてありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?