トワノナノカ

本文


 枕カバーの染みにため息。そんな日々の始まりは自業自得だ。
 ニカイドウ・ナノカという女の子がいる。彼女の彼女という立場は、いまやあたしの手のうちにある。何人たりともその地位を揺るがせることはできない。ただひとり、トワノという女子を除いて。
「ハルナちゃん。トワノさん、また寝不足そうだったね」
 そんな風に心配をするようなことを、ナノカはあたしにしたことがない。肉体的接触についてもせいぜい手を握るくらい。それも、いつもあたしからだ。キスをせまってもすっと避けられる。
「まだ早いよ」
 ナノカは言い訳が下手だ。顔色さえ変えずにトワノに目を向ける。もう三か月は経っている。進捗はほとんどゼロと言える。
 無為に時が過ぎていくのに焦れて、他人に苦痛を共有しようとしたことがある。
「トワノさんは、死ねば苦痛がなくなると思います?」
 あたしは輪廻転生など信じていない。ただ偶然に人間の女に生まれた。そしてナノカに惚れてしまった。それは欠陥だと思うけれど、そう生まれついたから仕方ないとも思う。なのに、逃げ場があるのであれば、それに縋りつきたいと願った。
「わからない」と彼女は言った。
「死んだら人間は無になると思うんです」
「その考え方自体は否定しない」と彼女は返してくる。「だが俺は無を知覚したことがない。無とはなにかわからないよ。だから、死ねば苦痛がなくなる、などとは言えない」
 女の子っぽい話し方ではない。だけど、どこかに儚い色気があるトワノという子を、あたしは憎むことができなかった。目障りではあっても、忌々しく思えない。
 そんなトワノは、いつもつかれたような顔をしていた。それを口実に、ナノカは彼女に声をかける。
「おつかれさま」
 それは、とてもやわらかい響きの言葉。
 あたしはただのシンボルだ。ナノカは異性愛者ではない、という。ただそれだけを示すための道具。それがいつかトワノに届いたら、その時はいったいどうなるのだろう。
 そんなトワノと、ある寒い日にコンビニで遭遇する。彼女はいつも通りの表情。
「死のうかと思う」などと、突然言い出す。
「なんで」あたしの声は震えていた。
「つかれたから」
 止めようと色々なことを言ったけど、結局、彼女は行ってしまった。あたしは目障りな女が消えるのと、好きな人の好きな人が死んでしまうのと、はたしてどちらがよりよい未来を導くか考えた。天秤には薄汚い砂が降り積もり、あたしはマシな方に自分の指を押し込んで均衡を崩した。そうと決めた瞬間に駆け出していた。
 橋から飛び降りようとする彼女を見つけて、どうにか引き留めることに成功する。
 トワノがぽつりとつぶやく。
「俺の人生、失敗ばっかりだ。生まれた時からそうだった。男に生まれたかった」
 それで、あたしはもうひとつのふざけた現実を知ってしまった。
「あたしはトワノさんに生まれたかった」
 どう思われたかはわからない。ただ彼女は泣いていた。トワノは淡々と涙を零した。それはとても美しかった。皮肉という言葉がある。意地悪なことを示す単語だ。トワノの現実は、きっとそれの生きた見本だったのだろう。本来であれば。だけれど、そのアイロニーというやつは、実際にはあたしの胸に突き刺さっていた。彼女が綺麗であればあるほど、ナノカの心はトワノに向くだろうから。
 だからあたしは決めた。
「トワノのやつ、死のうとしましたよ」
 ニカイドウナノカに告げ口をする。驚いたような表情。あたしが死のうとしても、こうはならないというような歪み。
「あいつ、男に生まれたかったらしいです。あんな雰囲気出しておいて。ナノカさんにはああいう方が似合ってるんじゃないですか」
 刺々しく言ったのに、ナノカはふんわりと笑った。
「ごめんね、ハルナちゃん」
 それから、トワノとナノカがうまくいったのかは知らない。時々なんでもないような会話をしているのを遠くから見ている。
 ただ、眠りの中で浮かんでくる景色がある。トワノがつかれた様子でアタシに甘えてくる。手をぎゅっと掴んで、どうしたのかと思えば、透き通った声で囁きかける。
「どうして止めたんだ」
 その答えはいつも同じだ。
「あなたが、本当のあたしだったから」
 そしていつも通り枕カバーを洗濯機に突っ込んで一日が始まるのだ。


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