BFC4落選展感想 84 - 87

 ジャッジよりも優先度の高いことがある。
 それが落選展で感想を書くということ。
 相変わらずリストはプロムナードさんからいただいています。本当にありがとう。
 本稿はその性質上、ネタバレを多量に含みます。ですので、まずは落選展の作品を読んでから、改めて他人が何を感じどのような誤読をしたのかを見てください。あと、この記事を読む時間を感想を書くのに当ててもいい。作者のためになる方法を選んであげてください。

 さて、ブンゲイのことなど一ミリもわからなくても、読んで感じ想ったことを書くことは容易です。そしてそこにあるポジティブとネガティブの総体からしか得られぬ必須栄養素というものが芸術の道にはあると思っています。ある中枢となる体験に向かってテキストを書くということに対し、その体験をする主体がどのように作品に向き合ってどんな誤解をしていくのか。物事が思ったとおりにいかないとき、その問題がどこからどのように出現したのかを知ることで得られるものもきっとあるでしょう。

 落選展の全作感想というのは、そうした行動を書き手ではなく読み手として見つめていくという行為と近接しています。
 だから私は、読書と偏見の披歴を通じて自分自身を高めるためにこれを書いている。まずはそれで、他の物事はあとからついてくればいい。そういうエゴイスティックなテキストを読ませる覚悟はできている。

84.護道綾女「あなたに会えたら

 題名に書かれている主題「あなた」というのは作中で「アンドモア」として定義されている。主人公は「アンドモア」に会いたがっているのだがどうしても果たせない。そこに男が現れて「アンドモア」の正体について教えてくれる。それを知った主人公はひとり笑って幕となる。
 作中で「アンドモア」とは「音楽の精霊」であるという記述がある。それに従うとライブの熱狂が終わったあとに寂しくなってしまうのも道理で、主人公は音楽をやっているときにだけ自分が触れたいと願っている存在「アンドモア」と共にあることができていたのだ。
 この作品は「存在しないもの」の周囲の情報を書くことで「あなた」に迫ろうとしているが、本体となる実像を綺麗に切り取れているかといわれる私はnoと答える。「アンドモア」と共にある時の「熱狂」が不在の作品であるため、「あなたに会いたい」という主人公の切なる願いはどうしても読み取りづらくなる。対象に迫ろうとするアプローチが弱い、ということだ。どういう方法を取ればいいのかわからないが、少なくとも「直接書かないこと」の弱いところを見たという気がする。

85.岡田麻沙「とりとひとひと

 ちょっと見ただけだと単純に奇をてらっただけの文章に見えるが、通常の文章と()の文章が同時並行して読者の頭に流し込まれていく過程で、それらが同時性を持っているのではないかと思わせられる。実際、ページ数としては3ページ目くらいに差し掛かって来ると、二つの文章が混ざり合って重なっていくかのような感覚に陥る。この部分が作品のなかのハイライトで、一度その現象を通過してしまうと再び両者の間に距離ができていくように感じた。文章構造の問題だと予想できる。通常の文章と()の文章のうち、どちらか片方が複雑な構造を持つだけで途端にバランスが崩れてしまう。意味的にどれだけ近いかというのも影響を与えるだろう。そのくらいこの話の作り方は繊細で複雑なのだ。
 どちらかの文章を飛ばして真っすぐに読むと通常の小説作品のように正しくリズムを刻んで読むことができるが、両方を混ぜている状態で綺麗によめているかという点については、初読の時点では微妙だった。四周目にトライしてみようかと思ったけれど脳負荷がやばすぎて断念した。
 同じ手法でも、もっと話(というか、文章の自体の構造)を簡単にしてくれたら読解が楽で、かつ双方の持つ話の関連性を読者に刻み込みやすかったのではないか。通常の文章と()の文章の双方がまったくおなじ構造を持って並んでいるとか。そういう反復があれば短期的であっても印象に残りやすく、読み手側としても情報を受け取りやすかったのだが。
 文芸しようとして文芸をするときはその手法の最大の効果とはなにか、がまず最初に答えとして存在していて、それによって読者の初読がある程度操作できる域に達していないと厳しいという気がする。書いてる方は話の内容を完全に理解している可能性が高いから、余計に読者の気持ちがわからなくなっているのでは、ということは言っておく。

86.十佐間つくお「草叢

 なんと破廉恥な。イグナイト/ブレーキ!
 まず最初にめちゃくちゃどうでもいいことですが、草叢という漢字を使った題名から開幕草むらと開いた表現になっていて、それがどうしてなのかということを考えるだけで思考が明後日の方向に逸れた。なんで別にしたんだよ。草叢という題名と物理実体の草むらが別のものであることを示すための使い分けかなにかだろうか。(って可能性もあるので、最初から読み直した)
 行方不明だった人物を見かけ、追いかけてしまう。その先にエロスを主軸とした表現があり、草叢という主題に近づくためかファンタジックな体験が始まる。最初、これはなんらかの隠喩ではないかと思ったが、それにしては意味的な接続が弱いので、そういう誘導をされているとは思えない。むしろなにかより大きな期待というものを提示し、それに向かってついていった先にそれを意図的に裏切るものが配置されている、という構造だけ使っていると考えた方がしっくりくる。主人公とヒトシくんの境遇を重ねて考えた場合、話の筋もわかりやすくなる。主人公が具体性のない期待(好奇心ではない)によって草むらのなかから聞こえる声に従ってしまうのは、その期待感の強さにほとんど本能的に従った結果とみていいだろう。
 ただ、そういうことをするなら別にエロスと切り離す必要はないわけで(性的な期待感と未知なるものを知りたいという期待感が身体的/精神的に折り重なって表現される場合と、切り分けられている場合と、どちらがより読者にアプローチしやすいかというと前者じゃないの? という話です)いっそのこともっと大胆に書いてもいいのでは、という。
 まあそうすると公の場で発表するのは恥ずかしい作品になってしまうかもしれない。それはそれでファイトっぽくておもしろいから私は見てみたいけど、それは私がエロスに飢えているわけではありません。イグナイト否定!

87.阿瀬みち「プラスティック・ドールズ

 ツイッターの支配者がマスクになろうが私は勝手に感想を書くし他人の作品にイグナイトする。どうもお久しぶりです。創作しているようでなによりです。私も元気にイグナイトしています。
 ここ、長いよ。
 題名からするとフィギュアとか戦闘機械(プリンセス・プラスティックのせい)をイメージしてしまうが、実際に読んでみるとその読み方でも特に問題はなかった。ミドリという小さな少女が出てくるのだが、その使われ方はフィギュア的だ。その一方、外付けの創作欲求であるというふうにも感じる。主人公が創作をするにあたって彼女(たち)はまったく苦痛を感じずあらゆる求めに応じるのだが、その代償としてどんどんと小さくなり、消えるところまでいってしまう。話はそれで終わらず2体目に移行し、主人公の成長と共に相手も成長していくことが描かれる。ミドリの扱い方に手加減がないところが、主人公が幼くしてえっちな漫画を描くほどの器にあることを示しているな。
 話が進むに行くにつれて「創作することが苦しい」という言葉が頻出する。主人公はミドリ(たち)に接近しようとすればするほど、それが真にはできないのだという感覚に陥り、それを苦痛と感じるようになる。凡そ創作のすべてにおいてそれが言えるかのような記述があるが、ここでいう創作は絵を描くということに局限されているとして読んだ方が物語を味わいやすい。主人公は漫画を描いているわけなので一応文芸的にもアプローチしているが、創作というデカいくくりでみると印象が散漫になってしまう。
 また、この作品が扱う内容は、創作をする側の問題から創作物を消費する側の問題へと変化していく。最終的にはその怒りの矛先が兄に向くうえ、ミドリたちは主人公に食われて産み直される。そこで彼女たちは「無痛症」と表現され、人間たちの感じる苦痛とは無縁であるというように書かれる。ここの展開で私は「話の軸がぶれたな」という印象を受けた一方、語りたい内容がそれだけたくさん存在するのだというような解釈もした。
 ここまで書いてみて、作者が本当に書きたいことはなにかもう一度読み直してみる必要があると感じたので、二周目に突入。
 ぱっと話を分解すると「ミドリを書いてるだけですべてがうまくいく(創作に対してすべてが肯定的な時期)」「ミドリを失ってうまくいかなくなる時期(モチーフを喪失したことによってこれまで得てきた創作ができなくなり、それを苦痛に感じる)」「ミドリを再び手に入れるが創作行為そのものが苦痛になってしまう時期(書くとなくなってしまうというおそれと、他人にモチーフの持つ真の魅力など伝わらないという絶望感があり、手を動かせなくなるので、苦痛の主体は自分がなにかを創り出せないという部分にありそうだ)」「工業的に創作をすること自体を咎め創作の対象となる存在を庇護し消費者を断罪する時期(自分の中に持っているモチーフへの絶対的な信頼感によって、それをただ作業的に他人に消費されるということそのものが耐え難くなってしまう。そのため創作もできないしそれを他人に見せることもできない)」「人間から完全に切り離されて神聖化されたミドリが産まれる(創作者や消費者について決して理解するわけではない、現実から切り離された幻像としてのモチーフが生み出され、それが神聖化される)」というような形で話が展開しているように読んだ。
 現実とモチーフ(幻像、幻想)の対比もあるはエログロはあるわとなかなかドロドロに煮詰まっている作品ではあるが、最終的に到達する地点はファンタジックだ。ただ虚無感が強すぎる味ではあったかな。でも作者の強い欲求じみたものが裏側にべっとり貼りついていそうで、作品そのものは読んでいておもしろかったし、構造分解もやりやすかった。現実と幻像、製作と創作という対立構造をもっと整理してからお出しすることも可能だったのでは、という気がするが、こうしたぐちゃぐちゃ感のある作品からしか得られない読書体験がある。出来がどうたらこうたらいってないでこういうものを摂取しろ、と神がいっているのかもしれんな。
 ところで、主人公が男か女かわからないのがこの作品の興味深いところのひとつ。「疑似精液」ひとつで男か女か考える余地がある。あるいは、あえて明示しないことでこの話の問題点が単純に性別に依存しない(にしては兄の扱いがひどいけどね)と主張しているのかもしれない。
 また、兄の本はマジで描けば案外売れる気がするんだけどどうだろう。兄は我慢して描かれ、そして売りさばかれるといいと思う。なんなら顔出し生売り子して話題を作ってもいいぞ。ぼくにはとてもできない。


 本稿は以上です。
 お読みいただきましてありがとうございました。

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