3分で哲学(近世①) デカルト
デカルトは近代哲学の祖と呼ばれるほど後世に大きな影響を与えた哲学者です。
哲学系の教科書をひらけば、デカルトの名前をみないことはまずないでしょう。
今回はそんなデカルトについて、簡単にご紹介します😊
「われ思う、ゆえにわれあり」
デカルトは何かを考えるうえで絶対的な原理を求めました。
まず絶対的に確実なものが手に入れば、そこから他の確実な知識を導き出していくことができるようになるからです。
この絶対的に確実なものを取り出すため、デカルトは一度疑いうるすべてのものを疑うことにしました。(方法的懐疑といいます)
映画マトリックスのような世界を想像してみてください。
もしかしたら私たちの世界もあのようなプログラムの世界かもしれませんよね。
その場合、この世界で食べるパンは実在するパンではなくある電気的な信号だということになります。
マトリックスにつながれた人々のように、この世界は全くの夢かもしれないのです。
また数学はどうでしょうか?
いくらマトリックスの世界とはいえ、1+1=2のはずです。
しかしデカルトはこれをも疑います。
もし悪魔が私を欺いて、1+1=2という幻想を抱かせているとしたらどうでしょうか。
そのときは数学的な知識でさえも確実とは言えないことになります。
さて数でさえも疑うことができるなら、もはや疑えないものなどないと思われます。
しかし全てを幻想にして私を欺く悪魔がいるとしても、欺かれる私が存在しなければ悪魔は欺くこともできません。
この世界の全てを疑うことができるとしてもそれを疑っている私だけは存在しているはずなのです。
疑う私自身を疑うことはできないからです。
私がこのように考えている間は私の存在は確実です。
これが「われ思う、ゆえにわれあり」ということでした。
「思惟するもの」と「延長するもの」
またデカルトは世界の存在者を2つに分けたことでも有名です。
精神と物体です。
物体は私たちが感覚的に経験することができる事物のことです。
身体や椅子、パソコン、水、空気、太陽など、これらのものは視覚や嗅覚や触覚を通して知ることができます。
これに対して精神とは概念的な働きを担うものです。
概念は感覚的に取り出されることはありません。
脳をいくら解剖してみても「E = mc2」を取り出すことはできないでしょう。
こうした法則は精神の働きによって取り出すことができるとデカルト考えるのです。
それでは精神と物体の本質は何か。
デカルトいわく、
精神の本質は「思惟するもの」
物体の本質は「延長するもの」
です。
概念を扱う精神が思惟(考えること)を本質とするのはわかりやすいですね。
物体の本質が延長だというのは、どの物体も物体である限りはどんなに大きかろうが小さかろうが空間上に広がりをもつということを意味します。
こうして世界のすべての存在者は「思惟するもの」と「延長するもの」に区別して理解することができるのでした。
問題はこうして2つの本質を肯定してしまうと、本質が全く異なるこれら2つがどのようにして関わるのかが不明になってしまうことです。
(私が歩くと意志することと、実際に私の身体が脚を出すことは関係なくなってしまいます)
この問題、いわゆる心身問題はその後の哲学に大きな課題として残されたのでした。
8/1追記
いつも読んでいただきありがとうございます☺️✨
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