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トイレの神様

「会社とかレストランのトイレ平気で汚す男の人ってさ、大抵家では良いパパなのよ。それで週末の度にトイレ掃除とかしちゃってさ。」
「ふーん、そんなもんかなぁ。でもさすが精神科医だね、そういう鋭い心理分析。」

 内心は、よくわからなかったのだが、取りあえず気を遣って僕はそう答えた。
「別に仕事とは関係ないって!普通に観察してればすぐ分かることよ。」
 そう言ってすました顔をしたが、少し嬉しかったのだろうか。顔を赤らめているようにも見えた。それとも、それは街を彩る色とりどりの光の瞬きのせいだったのだろうか。

 昨日から一斉に点灯が始まったクリスマスのイルミネーションは、普段は殺風景なビジネス街の駅前を華やかに飾り付けていた。
 それは華やかでありながら、いずれ消えゆく宿命を背負った儚さを宿していて、そんな光を見ながら手をつないで歩くカップル達の光景もどこか幻想的だった。

「若い先生が大体駆り出されるのよ、週末の診療は」
とこちらの気持ちなど全く意に介さない様子で来週のクリスマスの誘いを断られてしまったのだが、ダメモトで誘った今週末のデートは案外簡単にOKが出た。

 昼過ぎに駅前のデパートの前で待ち合わせ、映画に行って、ウィンドウショッピングを楽しんで、予約していたイタリアンの店で食事をして…取りあえずここまでは「順調」だった。

「でも、そんなお父さんでも居ないよりはましよね…」
 頭の上から降り注ぐ光の波を立ち止まってじっと見つめて、彼女はそうつぶやいた。その声のトーンは、普段は明るく竹を割ったような性格の彼女から想像もつかず、僕は思わず彼女の横顔を見つめた。
 イルミネーションの影になったせいだろうか。彼女の表情が一瞬陰翳を帯びたかのように見えた。
「ん?どうかした?」
「い、いや。なんでもないよ…」
「なーに?へんなの!」
 彼女がクスクス笑いだしたので、僕は慌てて前を向き直す。先ほど一瞬感じた陰翳を帯びた声も表情も今はもうすっかり消えてしまったようだった。

 円形の舞台上にクリスマスツリーが飾られた場所まで来ると、僕達はどちらともなく足を止めた。駅前の広場で一際目立つそのモニュメントの前では、大音量で聞いたことのないポップスの曲が流れている。
「やっぱ、この曲いいよねー」
「だよな!今度ライブチケット取ったからさ…」
 通りすがりのカップルらしき男女のそんな声が聞こえてはすぐに喧騒に紛れて消えていった。

 広場では、たくさんの人たちが立ち止まってクリスマスツリーの写真を撮っている。人通りが多いだけあって、さすがに抱き合っているようなカップルはいなかったけれど、手をつないで寄り添うようにしていたり、自撮り写真を撮ることにかこつけてか、女性の肩を抱き寄せている男もそれなりにいた。
 「つきあったのに手もつながない」なんて昭和の懐メロをどこかで聞いたような気もしたけれど、そんな手をつないだことのない僕たちも、こういうロマンチックな場所にいるとやっぱりカップルに見られるのだろうか。

 周囲を見回すふりをして、そっと彼女の横顔を盗み見る。キラキラと色とりどりに変化するイルミネーションに合わせるかのように、彼女の横顔も明滅を繰り返していた。
 彼女の全く別の一面を先ほど見た気がしたからだろうか。明滅を繰り返す表情は、そんな彼女の複雑な気持ちの変化を表しているかのようだったが、そんなことを忘れさせるほどに、その横顔はとても綺麗だった。
 ほんの少し先にいるのに、手も触れることができない。それが僕の不甲斐なさなのか、それとも彼女の神々しさに見惚れてしまったからなのか…そのどちらの気もしたけれど、どちらにしてもそれはとても哀しいことのように思え、僕はそんな気持ちを振り払うかのように色とりどりに輝くクリスマスツリーに目を戻した。

 ふと、備え付けのスピーカーから別の曲が聞こえてきた。イルミネーションと連動して流れていた先ほどまでのアップテンポの曲とは違い、胸に染みわたるようなメッセージと、ギターから流れる穏やかなメロディ。
 シンガーソングライターの女性が自らの体験をもとに作ったという曲は、発売以来瞬く間にヒットし、その年の紅白でも歌われたらしい。もう十年以上前のことで、当時小学生だった僕の記憶もあやふやだけど、何故かこの曲の温かな歌詞だけは記憶に深く刻みこまれていた。
 華やかな街の彩りとは全く対照的な静かなメロディは、それでも不思議とこの街の、今のこの雰囲気にマッチしているように感じられ、ざわついていた僕の心の波も凪いでいくかのようだった。

「知ってるこの曲?いい曲だよね。メッセージ性があって」
「そうね…」

 多分僕に合わせて適当に相槌を打ってくれたのだろう。いくら当時有名だったからとは言え、十年以上前の、それもさして人気が続かなかったシンガーソングライターの曲なんて知ってるはずはないだろう。
 心なしかくぐもったような声になったのを若干気に留めながらも、そうやって僕に合わせてくれた彼女の優しさをかみしめながら、僕は思い切って彼女の右手を握った。初めて触れるその指先は冷たく、彼女はそんな突然の行為に少し驚いたように指先をぴくっと動かしたが、すぐに僕の手を軽く握り返してくれた。

 次第に彼女の右手が温かくなってくる。彼女の手のぬくもりを感じながら、僕は人を好きになることがどういうことなのか、少しだけ分かったような気がした。

 何かを言うべきなのかも知れない。そういう気持ちが強く僕の胸を支配したが、一体何を言うべきなのか。
 答えは手を伸ばせばすぐそこにありそうな気がしていたが、それは捉えようがなく、目の前にありながら、形を為すことのない蜃気楼のように感じられ、僕は胸が苦しくなった。長い時間、僕達はそうやって黙って手をつなぎながら、クリスマスツリーを眺めていた。
 先ほどまで聞えていたカップルたちのはしゃいだ声も、電車が高架橋を渡る音も全く聞こえなくなり、スピーカーから流れるあの優しいメロディだけが僕の耳に優しく響いていた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと無言だった彼女の横顔を見ると、彼女は涙ぐんでいた。僕は驚いて思わず手を離す。
「どうしたの?ごめん…手なんか握っちゃって」

『カップルになるためにはデート3回目で手を握るのが効果的!』
なんていう雑誌の記事を鵜呑みにしてしまった自分が今さらながら恥ずかしくなる。

「違うってば!」
 離れた右手で目元を拭いながら、泣き笑いのような表情でそう言った。
「うち母子家庭でおばあちゃんっ子だったって言ったでしょ。すごく似ててさ。この曲聴くといつも胸がいっぱいになっちゃうんだ」
「そうなんだ…」
 少しホッとしつつ、瞬間頭の中が混乱し、
「えっ!?この曲知ってたの!?」
と、ノリツッコミのように彼女の目を見ながら大きな声をあげた。
 そんな僕の様子に、彼女たちは大きな目をくりくりさせて、次の瞬間、大声で笑い出した。

「さっきそうだねって言ったじゃん!なに?もしかして、君に話合わせるようなおしとやかな女の子だと思ってくれてるの?」
 そう言って斜め下から僕の顔を覗き込んだ。こっちの考えなんて全部お見通しなんだから!とでも言いたげな大きな瞳がイタズラっぽく光る。僕は慌てて目を逸らしながら、
「そ、そんなんじゃないって!」
と叫んで俯いた。それ以上何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう。

「でも良かった。この曲一緒に聞けて!」
 そう言って笑いながら、今度は彼女が僕の手をグイっと引っ張って歩き出した。

 彼女のその言葉で、止まっていた時間が堰を切るように動き出す。周囲のカップルのささやきあうような声や酔っぱらいのおじさん達の賑やかなわめき声、電車の警笛、青信号でタクシーが走りだす音。
 そんな喧騒に合わせるかのように、先ほどまで流れていた曲は終わり、またしてもアップテンポの僕のよく知らない曲が大音量で流れ始めた。
 全ての音が、何事もなかったかのように僕の耳に届き始め、それは街のイルミネーション同様、歩みを進める僕たちに合わせるように、大きくなっては消えていった。

「ね、もう帰ろう!私、明日早朝勤務で早く起きないといけないんだ」
 JR駅の改札口の前に来ると、パッと手を離し小走りに数歩先までトトっと行ってからクルッと振り返って彼女はそう言った。

 多分すごく残念そうな顔をしてたんだろう。会社の同期にも「お前は考えが顔に出るから分かりやすい」なんて、からかわれるくらいだ。全てお見通しと言わんばかりに彼女はププっと吹き出しながら、

「そんな残念そうな顔しないの!じゃ、またね!次のデートまでにトイレはキレイにしておくこと!チェックするからね!」
 そう言い残して、右手をヒラヒラさせながら駅の改札口に小走りで向かっていった。

 自動改札に颯爽とカードをかざし、振り返りもせずにたたっと階段を登っていく彼女をボーッと見つめながら、今言われた言葉を反芻する。
「次のデートでトイレをチェック…ん?それって…」

『初めてのお泊まりデートに誘うなら5回目がベスト!』
 例の雑誌のタイトルが僕の頭の中でぐるぐる回り始める。

「次回は4回目だけど…え、えー!?まさか!?」
 思わず大声を上げてしまった。今日2回目のノリツッコミに、通りすがりのサラリーマンが驚いたように振り返ったので、僕は恥ずかしさと嬉しさで赤くなった顔を隠すようにコートの襟をかき合わせた。

 彼女が帰った方向とは逆の地下鉄の駅へと向かう歩道を歩き始める。イルミネーションで飾り付けられた歩道には溢れんばかりの光の洪水が降り注いでいた。

「かわいい彼女を作るのが夢だった僕はー♪今日もせっせとトイレをピカピカにするー♪」

 元の歌詞とはちょっとだけ違うけれど、僕はスキップを踏むように早足で歩きながらあの歌を口ずさんでいた―――


【あとがき】
今から10年以上も前になりますが、植村花菜さんが作詞作曲した「トイレの神様」という曲が大ヒットしました。
当時友人から「トイレの神様とクリスマスとイルミネーションをテーマにしたストーリーを明日までに書いて」と無理難題をふっかけられ、電車の中で書き上げた作品があったのですが、とある事情から発表を取りやめていました。
10年前のいうこともあり、時代も少しだけ古くなっていたのと、話に無理がありそうなところを一部改変の上アップさせて頂きました。
季節も時代も全く違い恐縮ですが、また途中やはりおかしな所がまだありますが汗、感想など頂けると嬉しいです。


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