#はじめてのインターネット 自分があるということ
■仲間がほしいという動機
私がインターネットに触れたのは中学時代のことでした。
当時、いえ、それよりもっと前、小学生時代のころからどうも私は学校や親戚の間で流行っているものより別のものにハマる癖がありました。
なぜそうだったのかはわかりませんが、とにかく私は自分の好きな漫画やゲームに関して気軽に登下校の中で友人と話せないような学生時代を送っていました。
(今思えばいわゆる「布教活動」をすればよかったのではないか?と思うのですが、当時の私はそれもできないくらいに引っ込み思案でした。
そのためせっかく周囲の人が「これってなんていう作品なの?」と触れてくれても「言ってもわからないから別にいいよ。気にしないで」とあしらってしまうようなことも数多くありました)
そんな人がインターネットというものに触れた場合、どのような行動に出るのかは想像に難くないと思います。
ネットに触ってすぐ、私は「ようやく誰かと好きなものについて一緒に話すことができる」という思いで、匿名掲示板が用意されているサイトや雑談をしてもいい掲示板を探すようになりました。
■意見の取捨選択ができないということ
そこで、私は悪い意味での衝撃を受けることになります。
「○○は女性読者の多い作品だからつまらない、必要ない」「××という登場人物は女性人気があって女性の声が大きいからこの人物の台頭が目立っている。邪魔だ」といった、女性のユーザーの意見や女性目線の感想、女性の目線を目の敵にするような書き込みがごく当たり前に行われていたことです。
今となっては「女性読者の支持が一定数ある」が「不要」に飛躍すること自体「おや?」と思う、もしくは「私とは合わないな」で聞き流したほうがいいような話だと思います。
結局、その発信者がそのコンテンツの客でなかったというだけで不平不満を撒き散らしているようなものですから。
しかし、当時誰の意見も見聞きしたことがなかった私はそのままその思想を受け入れました。
「女性当人の立場である私がショックを受けるような内容であるだけで、本来のわたしの好きなものとそのファンの間では当然に常識である事柄である」と考えたのです。
■自分がない私が取った行動
思えばそこから、私の人格はより一層歪んだと思います。
女性だということが匿名でもバレないように他人と同じ言葉遣いを使い、自分の好きなものでも「女性ウケのするもの」は徹底的に罵る。
女性が書き込んだと思われる書き込みをした人を煽る。
インターネットを離れても、インターネットの上で女性に人気があるとされた作品は好きであると言い切らない。言っても本当に信頼できる親友にだけ。
私は、自分にとって辛い考え方を受け入れたことで、自分の手元に残らないような場所に自分の意見を残さない代わりに、自分自身の趣味や好きなものを表出できなくなりました。
ここまでこの辛気臭い文章を嫌気が差さずに読んでくださった方からしてみれば、矛盾していると思われるでしょう。
私は最初は「好きなものについて一緒に語れる人がほしい」と思っていました。それが、いつの間にか自分の好きなものを答えられなくなるくらいになっていました。「女性ウケのするもの」は「恥ずかしい」「低質だ」という考えに、女性がとらわれていたのです。
しかし、当時の私は「自分の書き込んだ文字に反応が帰ってくるなら、多少の不便はストレスは構わない」と思っていたのです。
そのくらい、誰かと馴れ合い会話する事に飢えていました。
たとえそれが自分を攻撃したり煽ってきたりする人だとしても、それは雰囲気を乱した私が悪い。
男性の読者やユーザーが多くて人気の作品はこれだけど、自分はあまりピンとこない。でもちゃんとチェックしないと女性だと思われる。
男性が選んだものだからすごくいいものなんだ。
良さがわからないのは自分が女性だからで、女性の感性が劣っているからなんだ。
そういう思考に浸かっていき、私は自分の好きなものを罵倒しつばを吐くようになり、何が好きだったのかも何がしたいのかも分からなくなり、自分を女性であるという点で嫌いになるようになりました。
■現在
今でもこの状態が続いているというわけではありません。普通に好きなものにはお金をかけられますし、ツイッターで相手が居ずともコンテンツトークを続けることもできます。
ですが、今でも「どんな作品が好き?」「漫画は何を読んでいる?」と言われると答えに困ってしまうことが多いです。
そして何故返答に詰まるか。それはだいたい、「これを答えたら『最近女性人気すごいよね』と言われる」という無意識の考えが働いており、女性人気のあるコンテンツという認識に対してストレスを感じるからです。
■自分があるということ
自分でもしょうもないと思っています。自分の考え方を素直に出せること、意思表示をできること、相手の考えを「それが正しい」「それは間違い」ではなく「そういう見方もある」と思えること。
それら、「自我」があって、初めてインターネットを使うユーザーになれるのではないかと思います。
間違っても、インターネットに初めて触れた当時の私のように他人の意見に同調するだけの添え物のような言葉を書き込み続ける人にならないよう。