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間食と、物事の選択について

こうして文章を書こうと思ったのはひさしぶりで、なぜかというと、時間がなかったから。

ふいにまた、書きたくなった。

基本、自分は滅多に人との関係において寂しさを感じることがないが、
食べ物とのかかわりの中ではいつも寂しさを感じてばかりだ。

「メンヘラ」なんだと思う。食に対して。

今はコロナで匂いが分かりにくく、味がわかりにくいということへの寂しさがあることを一旦置いておいたとしても、

1日3回の食事のたびに私は経験しなくてはならなかった。幸福の終わる瞬間を。

しかしいまだに、私はそれをすんなり受け入れることができない。
まだ何かを食べていたい。あともうすこし。

そうやって、だらだら食後にチーズやナッツをつまんでいる。或るいは、会社でもらったチョコレートやおせんべいなんかを。

まあ、要するに食べる量が少ないからというのが一番の原因だ。

でも、仮にきちんと食べるとして、欲が満たされてしまったら、
それはそれで寂しいと思う自分がいる。
だから、少なくとも1人でいるときは、満腹になるまでは食べない。

逆説的だが、日々に満たされない欲があることは、ある種の豊かさだと思っている。
そして、満たされることは、その反対であるとも言える。

話はそれるが、食に限らず、
欲が満たされているときでも、満たされていないときでも、「完全」はない。
何かしら選択肢を選ぶ際に、どちらにも必ず負の部分がある。

それを比べた時に、どちらの「負」が耐えうるものになるのか。

重要なのはそこだ。

もし、それを知らずに何か物事を選んでしまうようなことがあれば、
何を選ぶかが問題じゃなく、最初から何を選んでも後で後悔をするはめになる。

だって、完全だと思って何かを選んでいれば、いいほうを選んだって、
完全じゃない部分に気づいたときに自分に失望するからだ。

完全だと思って何かを選ぶのではなく、どちらにもある負の部分を見出し、
どちらの負を選ぶことができるか、それを最初から見据える力があればいい。

それを受け入れる度胸をもつ、というか。

(しかし私はしばしばこのことを忘れがちなので、いつも失望してばかりだ。)

今日の食後の間食はプロセスチーズにした。
匂いはわかりにくいものの、塩気のあるなめらかな舌触りのそれを、少しずつ口で溶かし食べるだけで、それなりにおいしいと思えた。

早く治ってほしい。

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