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食育という抑圧、共食という暴力 〜オンライン飲み会の可能性〜

新型コロナウイルスで、会食をするのが難しくなった。

昨晩初めてオンライン飲み会をした。飲み会というか、流行ってないバーの店長をしたという感じだったが。今まで「オンライン飲み会は盛り上がらない」が持論だった。大学でもゼミで学生たちがやってくれたけど、難しかったらしい。が、昨晩で宗旨替えした。楽しかった。それは、久々に内心的な話を他の人と共有できたということも大いにあるが、同時に、オンライン飲み会の楽しみ方がわかった気もしたからだ。

オンライン飲み会が盛り上がらないと思っていた理由は、同時に複数組が会話ができないことや、飲食を共有できないことだった。しかし、どちらもその場への「フル・コミットメント」が前提だからであると気がついた。
オンライン・イベントの良さは「ながら」で参加できることだ(そしてこれは自分のようなADHD的人間と相性が良い)。オンライン上で話している内容に興味がなかったら、一旦そこから後退して、本を読んでいても構わないわけだ。

オンラインでは、全員が全員、その場に全集中しなくてよい気軽さがある。逆に言えば、それを求めないのが肝要。仕事しながらでも、酒飲みながらでも、家事育児しながらでも参加してOKにするのがキモだなと。話したい人が話す。とりあえず顔だけ出しておけば、なんとなくつながっている感じはある。ゆるゆる。

ただやっぱり、場をまわす「コーディネーター」は必要で、そのため自分が「流行らないバーのマスター」になった。酔っ払ってからは、あまりその役をしなかったけれど。

飲食の問題も同じ。一緒にできない→しなくていい、の発想転換が必要。

かつての集落では、食を共にすることこそがコミュニティそのものであった…という説がある。確かに宴会を通じた親族・地域のつながりというのは、自分の田舎での思い出を振りかえってみても、確かにあるように思う。
しかしそれが苦痛な人々も、実はこれまでにも存在していた。それどころか、共食が排除や差別の理由ともなっている。

頭木弘樹 著『食べることと 出すこと』には共食の暴力についての話がある。著者は前首相がその退任の理由にしたのと同じ難病である、潰瘍性大腸炎で長年辛い闘病生活を送った。食事が苦痛なだけではなく、共食の場においてそれを拒否することで生じた人間関係の問題を語っている。

「『料理は一緒に食べる人によって味がちがってくる』と言うが、まったくその通りで、そのせいで、食べられなかったりする」 
「だから、食べない相手に対して、人はいら立ちや怒りを感じる。自分を受け入れてくれない拒絶を感じるからだ」 (『食べることと 出すこと』)

別の本だが、『ひとり空間の都市論』(南後由和 著)冒頭に、マンガ『孤独のグルメ』の話が出てくる。このマンガで主人公の井の頭は、食堂に入っても人と対話しない。一人で入って、一人で黙々と食べる。しかしその内的な心情が実にドラマチックに語られる。『ひとり空間の都市論』では、井の頭は、人とは対話しないが、食事と対話している、と述べられている。

井の頭は、明らかに、わずらわしい人間関係を食の場に持ち込むことを避けている。それも、「食との対話」を優先しているから、と考えれば腑に落ちる。これは、共食の場では許されない。共食の場で食とは、「食コミュニケーション」のツールだからだ。そこでは、食と真正面から付き合うことも許されない。食自体はないがしろにされているとも言える。

話を戻すと、共食において、食が「食コミュニケーション」のツールであるということは、そのツールを一緒に使うことこそが目的になるので、それが、どのような理由であるにせよ、食を拒む行為も許されないのである。

それは、たとえば居酒屋で、「俺の酒が飲めねえのか!?」という話ではない。「からあげ美味しいから食べてみなよ!」という話。「自分持ってきたつぶグミしか食べないんでいいっす」とは言えないのだ。 

「偏食はわがままとみなされやすい。病気とかアレルギーとかではないのに、ある食べ物が食べられないというのは、贅沢なことで、甘やかされて育ったり、わがままだからだというわけだ」
「しかし、許せないのだ。放っておけないのだ。非難して、食べさせたくなる。」
「『食』でつながることを求める圧力は、難病というハードルさえ超えるのである。」
(同著)

偏食は健康だけでなく、コミュ的にも悪であると言う風潮。「食べられない者は圧力をかけられ、非難され、そして排除される」(同著)。しかしオンライン飲み会であれば、そんな心配もない。もちろんアルハラもない。飲まない・食べないどころか、そもそもその場にすらいなくても非難されないのだから。平和。ピース。

食を共有したかったら、自分の食べている・飲んでいるものを画面に映したり、写真に撮ってチャットで見せればいいだけである。もちろんそれを、参加者は見ても、見なくてもよい。

同著の著者、頭木さんは、現在は健康になって会食の場にも出られるようになったが、しかしこうした共食の暴力を感じるようになってからは、とてもではないが、もう参加したいとは思わない、と述べる。

この話をSNSに書いたら、透析患者の方からコメントいただいた。会食に参加しないと、友人からは付き合いの悪い奴と思われるだけではなく、時には仕事でも支障が出ると言う。「一緒に食えない/呑めない奴とは仕事が出来ない」と吹聴される、とも。あー、もう。

私はこれまでゼミで、共食や、食を通じたコミュニティづくり、というのを意識して研究・実践してきた。そしてその経験の中でも、ゼミ生の中に、偏食や病気で十全に参加しない・できない学生がいた。

彼・彼女らに対して、私はそれを認めつつも、「わかってないなあ」「もったいないなあ」と内心思ったり、あるいは「いるだけでいいから参加してよ」と押し付けてきたようにも思う。

しょせん食はただの食。それ以上の意味を持たせることは、危険なことにもつながる…ということを、オンライン飲み会は気づかせてくれたようにも思う。頭木さんも次のように述べている。

「…食そのものに関する病気や障害さえ、共食すれば治るという説もあるようだ。『食コミュニケーション』でみんなとつながるのがいいことなのか、「共食」によって様々な心や身体の問題が解決するのか、それは私にはわからない。」
「しかし、少なくとも言えることは、病気や障害などで、食べることに困難のある人は、そこには参加できない。」

コロナで会食がままならない今、一旦立ち止まって、食とコミュニティのことを考え直す時期なのかもしれない、と思った。

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