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地域共生社会というフレーズはやばいと思うよ

はじめに:地域共生社会とは

社会福祉の先生の中には、「地域共生社会」という厚労省の予算削減のためのエクスキューズを、本気でよいことだと信じている人が多いのではないか、という話を研究会でした。

「地域共生社会」とは、社会福祉法の改正によって厚生労働省が目指す、地域住民の助け合いによる生活課題解決を推進する、政策的スローガンのことである。

2020年6月に公布された「地域共生社会の実現のための社会福祉法等の一部を改正する法律」に先だって公開された『「地域共生社会に向けた包括的支援と多様な参加・協働の推進に関する検討会」(地域共生社会推進検討会)最終とりまとめ(概要)』では、「地域共生社会」という概念を次のように説明している。

地域共生社会の理念とは、制度・分野の枠や、「支える側」「支えられる側」という従来の関係を超えて、人と人、人と社会がつながり、一人ひとりが生きがいや役割をもち、助け合いながら暮らしていくことのできる、包摂的なコミュニティ、地域や社会を創るという考え方。福祉の政策領域だけでなく、対人支援領域全体、一人ひとりの多様な参加の機会の創出や地域社会の持続という観点に立てば、その射程は、地方創生、まちづくり、住宅、地域自治、環境保全、教育など他の政策領域に広がる。

厚生労働省『「地域共生社会に向けた包括的支援と多様な参加・協働の推進に関する検討会」(地域共生社会推進検討会)最終とりまとめ(概要)』2019年12月26日公開

一見とても良いことを述べているように見えるのだが、しかしこれは、福祉国家における公助と共助、あるいは「非人称的連帯と人称的連帯」(齋藤, 2004)をめぐる、これまでの世界的な経緯や、その学術的研究成果を踏まえるならば、あやういものであることは自明なのである。そのことを以下に、とても簡単にではあるが説明しておきたい。

福祉国家と孤独な老人

マイケル=イグナティエフは1980年代、社会保障の整った福祉国家においてもなぜ、公園で日がな一日、孤独に過ごす老人が多いのかと問題提起した。福祉社会における個人の尊厳と承認の問題を問うたのである。

「わたしの住まいの戸口の見知らぬ人びとは、たしかに福祉を受ける権利を有している。 しかし、こうした権利を管轄する役人からはたしてかれらが相応の尊敬と思いやりを受けているかどうかは、まったく別問題」(Ignatieff 1984=1999: 21)

また同じ時期、パットナムがアメリカにおけるソーシャル・キャピタルの衰退を議論した。彼は、アメリカにおいては、政治・市民団体・宗教団体・組合・専門組織・非公式な社交などに対する市民の参加が減少していることを諸データを用いて強調したのだった(Putnam, 2000=2006)。この主張も影響し、先進国の福祉国家は、(社会保障制度を手厚く整えたがゆえに)かえって人々の間の社会連帯を損ねたのではないか、という議論が起きた。

そうした問題意識に触発され、福祉の進んだ北欧では人々の助け合いが衰えているのかどうかの調査が、2000年前後に多く行われた。しかしその結果は、はっきりしなかった。衰えてはいないどころか、むしろ福祉の進んだ北欧ほど、社会連帯は強いという可能性も指摘され、福祉国家が人々の絆の衰退の犯人とは考えにくくなったのだった。

孤独が社会保障費を増大させる?

2010年代前後から、別の観点から人々の孤独の問題が世界的にクローズアップされだした。孤独が、個人の健康を損ねることがいくつかの研究から明らかになってきたのだ。「健康の社会的決定要因」への注目である。社会保障が人々の絆を損ねたのではなく、人々の絆の衰退が社会保障費の増大を生んでいるのではないか、という逆の因果での注目のされ方が起きたのである。

国としては、それでは財政的に困る。では問題の孤独をなんとかすれば、社会保障費は減らせるんじゃないか、という議論になり、イギリスでは孤立問題担当大臣が置かれ、「社会的処方」という、医者が地域活動などを「処方」する医療的措置で孤独を何とかする方向が模索されだした。2018年のことだ。

社会的処方は本当に人々の孤独を解消できているのか。実証的研究が山のように積み重ねられた。そしてそれらの研究をさらに吟味分析するレビュー論文も次々に出版された。その結果、出された結論は、そうした社会的処方の成果には「再現可能性は十分にない」ということだった。

つまり、ある事例、ある地域ではうまくいったかもしれないが、それがそのまま、他の事例/地域に当てはまるかどうかは、環境が異なりすぎてわからない、ということである。とくに貧困地域においては地域資源も乏しく、裕福な人が多い地域の社会的処方のモデル事例は当てはめられない、という問題提起が多く出された。孤独の問題は、貧困問題なのである。

助け合いの衰退がほんとうに生きづらさの原因なのか

ここまで、福祉国家における公助と共助についての、世界的な議論、政策や研究の経緯を説明してきた。そこから言えるのは、孤独や疎外の問題、ひいては健康に地域で過ごせない原因を、地域の「助け合い」や絆の衰退に起因させるのは、明らかにミスリーディングである、ということだ。結局のところは、それらの問題解決のためには貧困格差是正が一番重要なのであろう。

ではいったい、「地域共生社会」とは何を目指そうとするスローガンなのか。先に紹介した『「地域共生社会に向けた包括的支援と多様な参加・協働の推進に関する検討会」(地域共生社会推進検討会)最終とりまとめ(概要)』には、次のような「新しい福祉政策のアプローチ」が紹介されている。

○ 個人や世帯を取り巻く環境の変化により、生きづらさやリスクが多様化・複雑化していることを踏まえると、一人ひとりの生が尊重され、複雑かつ多様な問題を抱えながらも、社会との多様な関わりを基礎として自律的な生を継続していくことを支援する機能の強化が求められている。
○ 専門職による対人支援は、「具体的な課題解決を目指すアプローチ」と「つながり続けることを目指すアプローチ(伴走型支援)」の2つのアプローチを支援の両輪として組み合わせていくことが必要。
○ 伴走型支援を実践する上では、専門職による伴走型支援と地域の居場所などにおける様々な活動等を通じて日常の暮らしの中で行われる、地域住民同士の支え合いや緩やかな見守りといった双方の視点を重視する必要があり、それによりセーフティネットが強化され、重層的なものとなっていく。

厚生労働省『「地域共生社会に向けた包括的支援と多様な参加・協働の推進に関する検討会」(地域共生社会推進検討会)最終とりまとめ(概要)』2019年12月26日公開

このように「地域共生社会」政策には、イギリスの社会的処方とも通底する、「地域コミュニティ」への依存が明確に存在している。これは、社会的処方をめぐる初研究が明らかにしたように、地域や個人による格差を狭めるよりも、むしろ、それを広げることを助長する可能性が大きい。

さらには、その地域での助け合いがなされることに、十分に予算が充当されるのか、という危惧もある。これも社会的処方のところで述べたことであるが、孤独防止は(社会保障の)支出削減が念頭にあって、行われるようになった政策だ。少なくとも、さらなる予算増加とはならないであろう。

というわけで、私は「地域共生社会」政策にはやはり斜に構えておいた方が無難だと思うし、それを無邪気にパラフレーズし、称揚する研究者は、ちょっと不安が残るのである。

参考文献


Ignatieff, Michael, 1984, The Needs of Strangers, Picador.(=添谷育志・金田耕一訳,1999,『ニーズ・ オブ・ストレンジャーズ』風行社.)
Putnam, R. D. (2000) Bowling alone. New York: Simon & Schuster. 22.( =柴内康文訳 (2006)「孤独なボウリ ング:米国コミュニティの崩壊と再生」柏書房.)
齋藤純一,2004,「社会的連帯の理由をめぐって ―自由を支えるセキュリティ」齋藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房,271-308.

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