モアイ・パラダイス:あるいは、アマチュア作家がメタ小説を書く理由

 たえず「日蝕」のつづく世界を見つけだすことが、われわれにとって急務となった。そんな風景を、あたりまえのように瞳でうけとめていたことが、たしかにあるはずなのだ。私はそれを、おもいだしつつあったが、やはりそれは、なんらかの虚構のうちに認められなければならないのである。(阿部和重『アメリカの夜』)

 海をこえたところには何があるのか、私は見たことがない。旅行にせよ留学にせよ、この国を出たことが人生で一度もないので、外国の姿を見たことがない。だから本当は外国なんて存在していないのかもしれない。あるいは私の全く知らない国が実は存在しているのかもしれない。例えば、どこか南の方に、楽園のような島国が。
 大学に入り文学サークルに入会するまで、ほとんど純文学と呼ばれるものを読んだことは無かった。そもそもほとんど本を読んでいない。たまに暇になるとスティーブン・キングとか推理小説を読んでいた程度で、それも二、三か月に一冊。シャーロック・ホームズが好きだった。BBC制作、カンバーバッチ主演のテレビドラマ『シャーロック』は基本的な登場人物、設定、構造はそのまま舞台を21世紀にすげ替え、自らを「高機能社会不適合者」(high-functioning sosciopath)と称する探偵ホームズが活躍する。原作の時点であったのか、それともドラマの新設定なのか忘れたのだが、カンバーバッチ・ホームズの設定で特に好きなのが「幼いころは海賊に憧れていた」というものだ。海賊とは法の外にあるもの、経済の自由を追い求めた先のもの、すなわちリベラリストの記号である、と私は思う。一見知性とは無縁の概念に思える海賊とホームズが結びつくことには大きな意味がある。リベラリズムの是非を論ずる気はない。ただ、どんなものにだって政治が隠れているのだと最近は思うようになった。
 誰にだって書きたい小説があるのかもしれない。私にも人生をかけてある作品を書こうと考えていた時があった。そしてそのために歴史を学び、技術を磨くためだけに文学サークルに入った。当初はそうだった。書いた小説はすべて、「その作品」のための準備でしかなかった。しかしそうはならなかった。何かを書こうとして小説を書いている限り、ひとは何を書いても、それがいくらふざけて書きはじめたものだったとしても、書き終えるまでにはいずれ身を削り血を絞ることになる。「あの作品」でいずれ描こうとしていたものが勝手に漏れ出し、悪臭を放つ染みを作る。今まで何度も確認したことではある。しかし今回の『モアイ・パラダイス』を書いたことで、私はそれを徹底的に理解させられた。
 この文章を書いている時間はもちろん、小説を書き終えたあとの時間だ。しかしおおよその読者は、小説を読む前にこれを読んでいるだろう。これは前書きか、後書きか。ネタバレはどこまで許されるのか。そもそも何を書くべきなのか。今から書くのはどちらかといえば、作品の周辺情報を紹介する文章になるだろう。後書きと呼ぶほうが相応しいかもしれないが、これを先に読んでも小説の楽しみを奪わないように努めるつもりではある。まず、筋書きはこうだ。『青年「小島」は死後、モアイ像に転生する。どこか南国の楽園でモアイは悠久の時を過ごす。しかし災害や戦争が起こり、人類は何度も滅亡する。モアイ、蟹、宇宙人、さらには『モアイ・パラダイス』の作者自身に転生しながら、小島はやがて「ボゴスロフスキイ」というもう一人の魂と出会い、彼の正体、「パラダイス」の正体、そして魂の救いと物語の終わりを追い求めてさまよう。』おおよそこんなところか。全然こんな話ではない気もするが、あらすじというものの性質上、仕方がないのだろう。
 しばらくやめていた執筆を八月に再開した。新しいバイトにも慣れ、太陽は執拗に眩しく、新作を始めるのにふさわしい季節。友人に何を書くべきか相談した。人間関係を掘り下げるのに挑戦したほうが良いと言われ、構想を始めた。この作品は九月に二万字以内の短編として友人に提出することになる。とにかく苦しんで書いた。その割にはつまらない作品になった。しかしアイデアの種は生まれた。いずれ書き直すだろう。わたしは一か月間その作品に苦しんだ。そして気晴らしにくだらないギャグ小説を書くことにした。二千字程度のものを、可能ならば毎日。新聞連載のように絶え間なく、しかし内容はくだらないものを。そしてモアイ像に転生した男の話を書いた。身内でまあまあウケた。それで気を良くしてわたしは例の作品に取り掛かるという流れ。しかし三日で飽きた。慣性によって書く手つきが手に入りさえすれば本気の作品のほうに集中すべきである。そして一か月ほど空いた。つまらない作品が完成し、わたしは虚脱感のなかでギャグ小説の続きを書き始めた。
 『モアイ・パラダイス』は合計三回の改稿を経験している。初めは一万五千字だった。モアイに転生する話というだけの、意義のない戯作である。それから一万字増えた。ここで「前世」にフォーカスして、話のまとまりを作った。ところでこの間にわたしの初稿を読んだ友人が転生と絶滅に関する短編を書いた。人類が大災害で滅亡したのち、何万年もの先に恐竜が再びうまれ、やがて文明を築いて現代人類と同じ世界線を歩みはじめる。これを読み、あるいは私が書きたかったのはこういう話だったのではないか、と考え、それは改稿に少なからず影響を与えた。「かぶり」を避けようとしなければ、主人公の人間時代を描こうというアイデアは発生しなかったかもしれない。この2稿に関して「炸裂」のメンバーと会議をし、さらに改稿することを決めた。前半のモアイ・カオスな世界に対して、終盤(つまり、2稿で増えた部分)がおとなしすぎるという意見には確かに説得力があった。2稿は確かに完結した物語になっているが、結局ただのメタ小説として終わってしまった印象があった。そこでさらにその先にモアイ世界を、いわば逆襲として再展開させようとした。そのうえで小説にまとまりをつけるため、いわばハリウッドのお約束的なオチをもたせればいいのではないかと考えた。そうすれば拡散しつつ収束するという矛盾を解消できるのではないかと。結局この考えでさらに一万五千字増え、3稿となったが、これは失敗だった。拡散する世界はどうあがいても拡散する印象を与える事しかできない。そこにチープなオチを与えることは却って、今まで読んできたのは何だったのかという虚無感や怒りさえ抱かせかねなかった。別の方法を考えなければならなかった。せっかくなので、結果は本編で楽しんで頂くことにしたいと思う。友人や「炸裂」の同志たちの評判はまあ上々といったところである。そして私が書いてきた小説の中で最長作品となった。これは予想だにしなかった。
 ところで、三年前に『蠅の歌』という小説を書いた。過去作品掲載記事(リンク)でも少しふれたが、これには『モアイ・パラダイス』と構造的に似通ったところが多い。しかし『蠅の歌』にはまとまりとよべるものがほとんど存在せず、悪夢的な情景と私個人のトラウマ的記憶が混じり合った、読んでいてひたすら不快感を催す怪文書の羅列とも言うべき文章であり、今では小説と名乗ることすらためらう。そして私自身、あまりにこの作品に身を入れたことで、自分の生活を崩壊させるきっかけになった。言葉とは恐ろしいものだ。しかし逆にこの体験が、私に「魂を込めた言葉」への強迫的信仰を植え付けたとも考えられる。魂を込め過ぎれば逆に「小説」を歪めることになる。何となく書き始めたものでも、育てれば佳作程度にはなる。そういう学びが、『蠅の歌』から『モアイ・パラダイス』までのあいだには挟まれている。
 しかし時として、「小説」よりも己の魂を選ばなければならないと感じる瞬間が確かにあるはずだ。そして私たちが魂を過剰に込めて書いた言葉たちは「小説」を裏切ることになる。「小説」は嘆き、栄養を失ってやせ細っていく。私たちは書けば書くほど「小説」が死に近づいていくのを見つめることになる。そして気が付いたとき、書いているのは外ならぬ、書くことそのものへの絶望だ。書くことがむなしい。書くことが楽しくない。しかしそれでも書いている。アマチュア作家がなぜメタ小説を書くのか。プロ作家には書けないからだ。小説を売り、飯を食う。その時点で、プロ作家には書くことに希望を持ちつづけることへの不可避の責任が生じる。あるいは世界中の誰よりも、書くことに希望を持ちつづけていなければならないだろう。生き続けるために。その生き方には並みの努力で到達できないだろう。その姿は美しい。しかし当然ながら、ここで述べたアマとプロの違いは便宜的なものでしかない。書くことへの絶望をたたえたまま、醜い姿のままで書き続けた作家たちも数知れず存在する。かれらの中にもやはり、覚悟と呼ぶべきものが存在していたに違いない。いまはその気持ちが少し分かる気がしている。そしておそらく私も死ぬまで書き続けるだろう。それを公開する場所、あるいはそれが希望か絶望かにかかわらず。

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