血の繋がりではなく、家族ということ。龍が如くとプリティーリズム・レインボーライブ

 先日、セガゲームスは同社のビッグタイトル『龍が如く』シリーズの最新作『龍が如く7 光と闇の行方』を発表しました。龍が如くシリーズは日本の極道社会を巡って繰り広げられるドラマティックで壮大なストーリーと、現実の歌舞伎町を模した神室町やその他の歓楽街に溢れた小さなドラマたちを多く盛り込み、歓楽街の数多の「遊び」をミニゲームとして盛り込んだ独特の作風で長い間人々に愛されてきました。
 その龍が如くシリーズが2005年のシリーズ開始以来主人公に据えていた桐生一馬の物語を終了させ、新たに春日一番というキャラクターと共に歩みだそうという、まさにこれからのシリーズの光と闇の行方を握っているのがこの新作タイトルです。春日一番という主人公は既に『龍が如くONLINE』というソーシャルゲームでは主人公となっていますが、ナンバリングタイトルの主人公として、新たに“本家”として歩みだすという意味で、この作品には大きな意味があるでしょう。
 この『龍が如く7』は一新されたバトルシステムなど、これまでのシリーズを一旦終わらせるという意志を強く持った作品であり、その点に関して言いたいことは色々とあるのですが、ここでは敢えて「桐生一馬」という、終止符を打たれた人物の物語、その“最後”に描かれたものに注目してみたいと思います。

 桐生一馬の物語が完結するのは2016年に発売された『龍が如く6 命の詩』というタイトルです。サブタイトルにあるように「命」をテーマにしたこの作品では、桐生一馬にとって重要な存在、澤村遥の産んだ新たな命、澤村ハルトを中心にして物語が始まります。そして作品内にはこれまでにないほど多くの親子の関係が描かれ、それぞれが困難を抱えながら、それぞれの関係性を問い直していくことになります。
 親子について問い直していくという作品は数え切れないほど登場します。しかしこの作品において興味深いのは、極道社会を描いているこの作品において「親子」という問題は、そのまま盃を交わした組長(親父)と組員の関係にも適用されるという点です。このことは親子の間で何かを受け継いでいくという考え方を問い直す補助線になっていきます。
 作中には血の繋がった親子が何組も登場しますが、その中で特に「血の繋がり」という点が強調されています。中国マフィアのボスであるビッグ・ロウとその息子との関係が象徴的です。ビッグ・ロウ率いるマフィアグループは跡目争いを避けるため、ボスの座はたった一人の息子にのみ引き継がれることになっています。そのため息子は幼少期から英才教育を受けつつ、巨大な父に認められようと必死でその背中を追います。そしてこの過剰に「血」を意識した関係性が、次第に歪みを抱えることになってしまいます。
 一方、広島を中心に巨大な勢力を誇る極道組織「陽銘連合会」の会長、来栖猛は息子の適性を考え、自らの表の顔である巌見造船社長の座のみを息子へと受け継ぎ、裏の顔である陽銘連合会からは遠ざける選択を行いました。しかし息子である巌見恒雄は父のその判断に反発し、父の権力全てを受け継ぐことを欲し、やがて父親との対立の末に自らの手で彼を葬ることになります。
 この二者の歪んだ親子関係は、共に自らの息子のことを真剣に考え、息子のためを思って行動した結果引き起こされたものでした。しかし一方で、血の繋がりに過剰に固執していた結果、「親子として共に過ごす時間が足りなかった」と、物語終盤の桐生一馬によって振り返られることになります。

 愛故に機能不全に陥る親子を描いた作品に、2013年から14年にかけて放送されたTVアニメ『プリティーリズム・レインボーライブ』があります。同アニメに登場する蓮城寺べるは仕事で海外を飛び回る父と教育熱心な母のもとで英才教育を受け、中学生とは思えないほどの多彩な能力と、プリズムショーの実力を持つまでに至っています。しかし母の厳しい教育の影響で、「自分は優れていなければ愛されることはない」と考えるようになり、非常に冷たい性格にも育ってしまっていました。
 そんな蓮城寺べるは、主人公綾瀬なるらとの交流によってプリズムショーのきらめきに触れ、少しずつ変わっていきます。そんな彼女がようやく自らのあり方を見定めるのが、48話「私らしく、人間らしく」です。
 プリズムショーの中で行われるべるのモノローグは以下のようになっています。

「最初に見たわたしの夢は、ママの笑顔を見ること/だけど、その先に待ってたのは茨の道。でも、後ろに引くことなどできなかった」

 彼女の中にはじめにあったのは、親の愛を欲する子供の純粋な気持ちでした。しかしそれはやがて歪んだ形で彼女を縛り付けることにもなっていきます。そこから自由になろうと、自分らしくなっていこうとするべるのことを、母親は更に束縛しようとします。そこにあるのは「あなたのため」という合言葉です。悲しいのはそれが本心であるということ。心から子供を愛するからこそ、子供のためを考えて、結果的に束縛と呼べる状態を呼び込んでしまう。そしておそらく、そこで子供自身の意志というものは、ほとんど顧みられることがなくなってしまいます。血の繋がりというものに寄りかかった親としての欺瞞が、彼女にそうさせていたのではないでしょうか。
 蓮城寺べるの親子は、べるの「ママに愛されていない」という気持ちからの脱却と、父親の「妻に育児の責任を押し付けすぎた」という反省から、ようやく機能不全を脱却する糸口を掴みます。しかしそこで最も重要になったのは、蓮城寺べるの「私らしく、人間らしく」がようやく見定められることでした。彼女は「ママの子供である」ということを脱却し、一人の人間としてしっかりと立つことが出来るようになったからこそ、ようやく親子としての関係をスタートすることに成功するのです。
 蓮城寺べるが大きく変わるきっかけとなったのは、常に彼女を近くで支え続けていた二人の友人、「森園わかな」「小鳥遊おとは」の二人との関係性の変化でした。彼女らの関係は物語の初めにはあまり良いものとは言えませんでした。華のあるべるとその取り巻き、というような彼女たちの間には上下関係があり、べるの言うことは絶対であり、べるの意見がわかなとおとはに押し付けられるというのも当然のことでした。この関係は、実は母親とべるの関係と相似の形を取っています。べるは親が子供に対して絶対的な立場を持つかのように、二人の友人に対して絶対的に振る舞い、ときとして彼女らの意志を黙殺します。べる自身が苦しめられている関係性を反転させた形で、べるは抑圧する側のロールを演じてしまっているのです。
 この問題は第29話「私はべる! 店長にな~る」においても象徴的に描かれています。この話では蓮城寺べるが綾瀬なるの代打としてファッションショップ「プリズムストーン」の店長を務めるのですが、彼女は善意から、客に対して高い要求を押し付けていきます。その際に彼女は「あなたのために言っているのよ」という母親と同じ言葉を口にします。ここにおいて「母親―べる」の関係は「べる―客」の関係へとスライドしています。そしてこの「べる―客」の関係がまた「べる―わかな・おとは」の関係ともパラレルなものになっているのです。
 第29話は、自分の高い要求を押し付けるのではなく、一人一人の客を尊重し、それぞれの好みに合わせた接客を行う大切さをべるが学んでいくという話です。そしてべると友人二人の関係もまた、同じ様に「相手を尊重する」ということを通して改善していきます。事態は一貫して、人間関係の問題です。互いに尊重するということを学び、相手の相手らしさを見ることができるようになったべるはまた、自分の自分らしさを見ることができるようになり、そのことが彼女を「人間らしく」していきます。だからこそ、彼女はようやく母親との関係をも変えることが出来るのでした。
 親子関係は言うまでもなく、人間関係の一つの形です。そして人間関係とは、互いに個人として尊重し合うところにしか正しく成立し得ません。血の繋がりというものが欺瞞を呼び、その個人としての尊重を阻害していくというのは皮肉なことではありますが、これはまさしく『龍が如く6』で描かれた親子関係の機能不全にも同じことが言えるでしょう。桐生一馬の言う「共に過ごす時間が足りなかった」とは、個人同士として相手を見る時間が足りなかったということを指摘していると言えるはずです。

 一方、『龍が如く』シリーズで描かれる血縁のない親子は、血縁のある親子とは対極として描かれている側面があります。
 極道における親子はたしかに、血縁以上に厳しい上下関係に支配されます。盃に縛られることが血縁に縛られるのと同様に両者の目を曇らせることもあるでしょう。しかし一方で、アプリオリな結びつきではなくあくまでもアポスティリオリな結束であるという意識が、どこかで薄氷を踏むように、関係性を正しく維持しようという力学を呼び込むようにも、また見えます。極道の親子関係は、互いの努力を欠いては成立し得ないものなのです。
 主人公の桐生一馬をはじめとして、龍が如くシリーズには数々の身寄りのない子どもたちが登場します。彼ら、彼女らはそれぞれが「親がいない」という事実に直面しながら、親代わりとなってくれた人との間に血縁のある親子以上の絆を結ぶことに成功しています。身寄りをなくした澤村遥は、育ての親である桐生一馬のことを「私の家族です」と毅然とした態度で宣言してみせます。他にも血の繋がった親子以上の親子関係がいくつもあります。そこにあるのは「たまたま上手く行った関係性」とも言えるでしょう。しかし一方で、血縁という前提を予め欠いているからこそ、正しい形で繋がり合おうという努力があった関係性と言えるのではないかと、私には思えるのです。

 チョーズンファミリーというコンセプトがあります。それは何らかの理由(差別や偏見など)で血の繋がった家族と上手く行かない、血の繋がった家族をそもそも持たない人たち同士が相互に繋がりあい、伝統的なものとは違う家族の形で相互扶助を行っていくというものです。変な話かもしれませんが、私は『龍が如く』で描かれていた様々な関係に触れて、このコンセプトを思い出しました。血縁のない者同士が自らの意志で選択し、繋がっていくということ。その上に確かに絆を築けるのだということ。極道社会を描く龍が如くシリーズは、どこかでこのチョーズンファミリーのコンセプトを後押しする力を持つのではないかと、思わずにはいられません。

 龍が如くシリーズの桐生編最終章となった『龍が如く6 命の詩』がなぜそのような「親子」を描いたか、その理由は明白です。長く続いたシリーズが積み上げてきたもの、桐生一馬という人間がそのまま消えるとは言い難いからです。桐生一馬という人間が人生をかけて作り上げたその“生き様”は確かに引き継がれていく、ということを最後に記しておきたいのです。シリーズが終わる、終止符を打つというときにただそれが消えるのではない、それは受け継がれていくのだということを示そうとしたのが『龍が如く6』でした。桐生一馬の伝説が死ぬとき、そこには新生が、引き継ぐという行為が儀式として必要だったのだと思います。
 人生も同じです。人が親子を重視するのは、そこに何かしら受け継がれるものがあるからです。何かを遺してこの世を去ろうというとき、信頼できる相手として自分の子供を選びたいという欲求が人々にはあるのでしょう。しかし、そこで重要なのは血縁ではありません。相互に人間として尊重し合い、信頼関係を築く努力を行うということ。そういうことの方が血縁よりも重要であり、血縁に依存すれば逆に関係性は崩れ去ってしまいかねない。そういう認識を遺して、桐生一馬の物語は幕を閉じたのではないでしょうか。

(朝倉 千秋)

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