現実が虚構を圧倒するとき――2020東京五輪ギャグバトル

『現実vs虚構』。

 それは、映画『シン・ゴジラ』を象徴するキャッチコピーでした。「虚構」の怪獣ゴジラに、「現実」のニッポンが立ち向かう。その戦いは、脅威を前に誇りを取り戻したニッポンの勝利という「虚構」が提示されることにより幕を閉じました。

 しかし、ゴジラが冷却凍結された今もなお、『現実vs虚構』の戦いは継続しています。『オリンピックvs 小説』。戦いの舞台は2020TOKYOへと移りました。そして、オリンピックという圧倒的現実は小説の想像力を脅かし続けています。「怪物」は思わぬところに潜んでいたのです。

https://news.livedoor.com/article/detail/17014688/

 ここ最近話題になっているこの記事。読めば読むほど悔しくなります。【五輪の猛暑対策、切り札はアサガオ。競技会場を視覚的に涼しく】と、【涼しげな音色で酷暑乗り切れ。新国立競技場に巨大風鈴設置】のどちらが本当のニュースなのか分かる人ははっきり言って誰もいないのではないでしょうか。

 そしてもっとやばいニュース。【五輪テスト大会のスイムが中止に。会場で大量の大腸菌検出】。五輪に向けたテストイベントがお台場海浜公園で行われたが、基準を大幅に超える大腸菌が検出された、というニュースでした。この記事をきっかけに知った東京の下水処理事情にも驚いてしまったのですが、何より打ち負かされてしまったのはちょうど同時期にお台場で「うんこミュージアム」が開催されていた、という「現実」を知ってしまった時でした。死ぬほど笑いました。うんこでそんなに笑ったのは『絶体絶命でんぢゃらすじーさん』を読んだ時以来だったのではないかと思います。

 これが小説と本当に関係あるのか? と思う方もいるでしょう。私は大いにある、と考えています。それは、現実の中にギャグが溢れすぎなんじゃないか? という危機感です。現実でこれだけ馬鹿げた、奇跡的なコメディが繰り広げられている今、わざわざ小説でコメディをやる意味があるのか、と嘆息してしまうのです。

 虚構として表現されたギャグである「風鈴」と、現実に新聞記事になってしまった「アサガオ」の違いがよい例です。それは「虚構」と「現実」の違いをむざむざと見せつけているようにすら感じます。虚構新聞によって、あくまでもこれはフィクションでしかないというメッセージとともに発せられた「新国立に巨大風鈴設置」のニュースは、私たちの想像力を大きく刺激してくれます。ですがそれは、結局は実現されえない事象として消費されるほかないのです。風鈴は、一人の書き手の想像力によって作られた嘘にすぎない。

 もちろん、虚構新聞のニュースが本当のものだと思い込んでしまう事例は枚挙に暇がありません。そこでは、噓を本当だと信じこませることに(一時的にでも)成功している。小説は虚構を本当であるかのように思わせる技術の結晶です。ですから、これはある意味虚構(小説)の勝利だとみなすことができます。しかし、釣られた人たちの幸福な夢はネタバラシとともに終わります。あの巨大風鈴は、真夏の新国立の空の上を蜃気楼のように漂う幻として、私たちの心の中に住み着くほかないのです。

 しかし、アサガオは現実である。「涼しい印象を与えるアサガオのレーン」は現実である。「涼につながりそうなものは何でも試す」というコメントも現実である。冗談みたいな暑さ対策が現実に行われようとしている。無茶をきわめた出来事が、さも当たり前であるかのように進行している。これ以上のギャグがあるのでしょうか? 国民全員で壮大なコントをやっているようなものです。しかし、そのコントは他でもない現実として進行するのです。タガが外れたような出来事が至極当然に、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の主導のもと行われる。現実が強すぎて虚構がかすんで見えてしまいます。現実に何かが起こってしまっていること。この力は思っていたよりも大きかったのです。私たちは暑さ対策のため設けられたアサガオを前にして、いやあ、アサガオがあると本当に涼しくなるなあ! そうだねえ、気持ちがこう、落ち着くよね。何より色もいい。青色っていうのは、清涼感を与えてくれる色だからね! と下手な芝居を打たねばならないのでしょうか。下手すぎます。「事実は小説より奇なり」という言葉を、よもや東京五輪を目前にして痛感するとは夢にも思っていませんでした。

 極めつけのうんこミュージアム。大腸菌に汚染されたお台場の海に引き寄せられるかのように出現した「MAXうんこカワイイ世界」。まるでそれは、何かを書きつけた瞬間、その言葉の磁場に吸い寄せられるかのように別の言葉が連なっていき、テクスト固有の空間が作り出されていくという小説の原理をそのまま体現しているかのようですらあります。お台場という空間(テクスト)はうんこのネットワークによって結ばれる。まさに、現実が小説的に動いているのです。いくら悪趣味な作家でも、汚れた海の近くにうんこの祝祭空間を置くなんてことは思いつかないのではないでしょうか? これが個人の想像力を超えた運命の成せる業だったとしても、もうちょっと他にやることがあったんじゃないかと思わざるを得ません。さらに都合の悪いことに、うんこミュージアムホームページにはこう書かれています。「日本が誇る”カワイイ”という文化。その頂点に君臨するのは、この世に誕生した瞬間に流されて消えていく、とても儚い存在のうんこなのです」。ですが、私たちはこう応答することができます。「お台場海浜公園に溜まってるよ!」……と。

 安倍首相が吉本新喜劇の舞台に突如現れたのも、今思えば壮大な前フリだったように思います。「ここから先、日本はギャグになるぞ」というメッセージを伝えるために、安倍首相は決死の思いで舞台に立ったのではないでしょうか? それならば国民がすべきことは、新喜劇特有のこけ方をいつでもできるように練習しておくことなのか……? 島木譲二さんのパチパチパンチは国民の新たな義務に……? そうでないとしたら、やはり現実に勝つしかない。私はゴジラ。某お笑い大怪獣のように、壮大なコメディ空間と化した日本に降り立つ。現実に笑い飛ばされるのではなく、あくまでも虚構によって現実を笑い飛ばしていく。そういうことをやっていきたい。

 何年か前に、私の知り合いがぽつりとこんなことを呟きました。「東京オリンピックやるころに、うちらはどうなっているんだろうね?」その時の私はこの言葉にかなりのロマンを感じていました。自分は果たして何をしているのか。2020年に東京でオリンピックとパラリンピックを見る私は、何を考え、何を感じているのか……。その時は本当に思っていたのです。しかし今の私にとって東京オリンピックとはギャグです。4年に1度のネタバトル。現実の圧倒的コンテンツ力に立ち向かわなければなりません。ですがオリンピックとギャグバトルをやるには私はまだ力不足です。とにかく、来たるべき時に向けて、牙を磨いていきたいですね。

(灰沢)


#小説 #エッセイ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?