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林伸次さんは、令和の日本のエリナー・ファージョン(『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』のこと)

人はみんな、頭の中にいろんな世界を持っている。
生まれながらに(なんとも羨ましいことに)想像の翼を働かせていろいろな世界を創造できる人もいるけれど、おそらく大半の人の「世界」は、自分がこれまで見たり聞いたり読んだりしてきたものによって構成されていると思う。

私もそうだ。
小さな頃に見ていた風景、見聞きした物事、そして読んだ本。
本は私の世界を大きく広げてくれた。

読書によって私が獲得した世界のなかには、実在する地名(たとえばケストナーのドイツ、ワイルダーのアメリカ、リンドグレーンのスウェーデン)もあれば、完全なるファンタジー(たとえばC.S.ルイスのナルニア国、エンデの『はてしない物語』、あるいはハリー・ポッターの魔法学校)もある。それらはみんな、互いになんの矛盾も対立もなく、私の頭の中の世界に存在している。

中でも印象に残っている世界がある。
エリナー・ファージョンの、『ムギと王さま』という童話集。
この本は、ファージョンの自叙的なまえがきから始まる。まえがきには彼女が子どものころ入りびたり、手当たりしだいに本を読んだ『本の小部屋』の思い出が書かれている。

わたくしが、目をいたくしながら、こそこそと本の小部屋を出てくるとき、わたくしの頭のなかには、まだ、まだらの金の粉がおどり、わたくしの心のすみには、まだ、銀のクモの巣がこびりついていたとしても、ふしぎはありません。ずっとあとになって、わたくしが、じぶんの本を書きはじめたとき、その物語が、つくりごととほんとのこと、空想と事実とのまじりあいになってしまったとしても、ふしぎはありません。あのちりから生まれたこの本の物語が示すように、わたくしには、それとこれとの区別がつかないのです。

『ムギと王さま(岩波少年文庫)』エリナー・ファージョン

本のなかにはたくさんの「世界」を描いた話が収められていて、ひとつひとつが詩的で美しくユーモラスで、ときには優しくときにはぎょっとするほど辛辣である。そしてそれらの世界すべてが、『本の小部屋』というもうひとつの世界の中に閉じ込められている(だから童話集そのものが『本の小べや』と名付けられている)。

ナルニア国やホグワーツ魔法学校よりもずっと淡白なやさしい色合いながら、この童話集が私にとって忘れがたい存在なのは、この構造のせいではないかと思っている。ただのファンタジーではなくて、まえがきにある「金の粉」や「銀のクモの巣」を透かして見るファンタジー。いま思えば、あの金の粉はエリナー・ファージョンの世界そのもの、眼差しそのものだったのだ。

考えてみたら当たり前なのだが、本を読むということは、書いた人固有の「世界」を覗き込むという行為だ。
本の小部屋、を挟んだ複層的な構造によって、その世界の唯一性がよりはっきりと浮かび上がる。
ワイルダーの(自伝的な)リアルとも、C.S.ルイスのファンタジーとも違う。リアルごしに見るファンタジー、というものの面白さを教えてくれたのが『ムギと王さま』だったのだと思う。

林伸次さんの『世界はひとりの、一度きりの人生の集まりにすぎない。』の構造は、『ムギと王さま』にすこしだけ似ている。

ひとつずつの世界が、林さんだけの「世界」に閉じ込められている。ときどきモチーフや人がつながったり、リンクしていたりする。思わず前のページをめくって関連性を確かめたくもなるが、それは大したことではないのだと思う(多分)。大切なのはそのひとつひとつが「とても閉じていて小さな不思議な世界」だということ。でもその世界はそれぞれが矛盾せず対立せず、林伸次さんという唯一の、はてしない「世界」の中にある、ということだ。甘いバニラと木のような香りのする世界。そのことがとても心地よい。

私の「世界」もとてもちっぽけで、閉じている。でも、これまで見聞きし読んできた世界ぜんぶが詰まっているから、すごく広い。

世界はそんなひとりひとりの小さくて大きい「世界」が集まって、星のように現れては消えながら、できている。

この本を読んで私が感じたのは、そんな無数の「世界」の存在だった。
別にカテゴライズする必要はまったくないし、私だけの勝手な印象でしかないのだけれど、林伸次さんは、令和の日本の(そして少し大人向けの)、エリナー・ファージョンである。

おもしろいなと思うのは、私がnoteを通じて、林さんのことを(ほぼ一方的に)知っている、ということだ。
エリナー・ファージョンについて、私は『ムギと王さま』に書かれていること以外何も知らない。
でも林さんのことは、すこし知っている。
だから『レモネードの話を夏が終わるまでに』の「僕」と「妻」のやり取りは勿論のこと、『好きな人の近くにずっといる方法』の「天使」と「彼女」の会話なんかにも、いつもnoteで書かれている魅力的な奥様とのやり取りがよぎってクスリとしてしまう。『誰もがなりたかった者になれるなら』の「ナクル国の王子』には、あの愛らしい犬の姿がよぎる。物語のはしばしに出てくるお酒は、言うまでもなく林さんご自身がバーテンダーだからこそ、より強い印象を残す(カルヴァドスといえば『凱旋門』だけれど、これがカルヴァドス・ソーダになるとずっと軽やかで柔らかく、でも静かで、まさにこの世界にぴったりのお酒だと感じられるから不思議だ)。

つまりこの本は、私にとっては「リアルごしに見るファンタジー」どころか「noteごしに見るリアルごしに見るファンタジー」という、とても複雑で心愉しい仕掛けになっているのだ。
そんなところも、この時代ならではだなあと思う。

それから、本の装丁も素敵だ。
シンプルでシックなカバーを外すとあらわれる、鮮やかな色。全編を読んだあとでこの表紙を見るとあらためて、あの果実の香りがわき立ってくるようである。

最近は文庫本と電子書籍しか買わなくなっていたけれど、単行本を持つ喜びはこんなところにもある。

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