祖父のこと

祖父の訃報が届いたのは、正直突然の事ではなかった。
何故かと言えば、祖父はもう随分と脳に出来た悪性の腫瘍で伏せっていたからだ。
電話でその訃報を受け取ったのは、確か部室にいた時だと思う。サークル活動の最中に、母からその電話を受けた。
受け取った私は、すぐに帰路についた。次の日、朝早くに母の故郷へ発たなければならなかったからだ。母の故郷は、札幌からは直通のJRが出ていない。高速バスも、故郷行きの直行便はでていなかった。つまり、時間がかかるのだ。
あらかじめ揃えておいた鞄やら喪服やらをトランクに詰め、慌てて冷蔵庫の中身を処分し、私は明朝出発した。
確か北海道はもう寒い、九月の末日のことだった。

私はバスに揺られながら、寝てはいけないと考えていた。終点で降りるのとは違う。途中で降りなくてはならい、つまり寝過ごせばおしまいだ。
そうしながら、兄と連絡をとっていた。兄は東京に住んでいて、その頃は今と違う仕事をしていた。会社に申請をし、通夜には間に合わないかもしれない。けれど、なんとか葬式には出られるとのことだった。
しかして兄は高卒で北海道を出て行ってしまったので、あまり道内の地理に詳しくない。乗り換えの駅まで行けば親戚の誰かが迎えに行くという話だったので、新千歳で降りた後の歩み方の話をしていたのだ。
確か、そう、バスは遅延していた。
けれど従姉妹とその旦那が私のことを迎えに来てくれた。降りると雨が降っていた。傘は、持っていなかった。
私は雨を避けるように、寂れたバス停の近くの、パチンコ屋の屋根の下でトランクを抱えながら車を待っていた。従姉妹は若干濡れた私を快く車の中へ迎え入れ、祖母の家まで連れて行ってくれた。
その日は通夜振る舞い後、線香の世話を兼ねて葬儀場へ泊まる話になっていた。

まるで眠るようにそこに居る祖父に手を合わせ、私は荷物の整理をした。しながら、おずおずと母にタイツを忘れたことを申し入れた。母は眉を寄せながら、後でコンビニに行くのでその時に購入するように私に言った。
兎に角、まだ着替える必要はないから昼ご飯の用意を手伝うように、と申しつけた。
兄はその頃、飛行機に乗った。
まだ実感がなかった。母と双子の姉は悲しみを隠しきれずに台所に立つので、代わるように申し出た。
授業が始まる頃、友人に連絡し私は葬儀に出るため教授にその様に申し伝えて欲しいと伝えた。友人らは快く、レジュメを受け取っておく旨の返信をくれた。

着替えてからはすぐだった。
高校を卒業してから初めての葬儀だったので、私は初めて喪服に袖を通した。それまでは制服で参加していたからだ。
初めて袖を通した喪服はひんやりと冷たく、慌てて購入した安物の為生地が薄い。
早く脱ぎたいと思った。
申し訳程度にパールの付いた黒色のシュシュでポニーテールを作り、こちらも作り物のパールで出来たピアスを嵌めた。
兄は結局、通夜の始まりには間に合わなかった。
その上乗り換えもわからないというので、私は通夜の間中iPhoneを弄り回す不良娘と思われたかもしれない。けれど、兄が乗り換えられた、というのを聞いてほっとした。
世間知らずかも知れないが、こうしたときには必ずかけつけてくれる兄なのだ。
父方からは祖母と叔父がきた。祖父は体調が優れず、叶わなかった。祖母は私の作り物のパールで出来たピアスを見て、いつの間にピアスを開けたと聞いた。
私は今聞くことではないと思いながら、ずっと前だと答えた。
母の友人もたくさん来た。私の顔を見て挨拶もしてくれたが、全くと言っていいほど私には誰かわからない人もいた。
通夜の終わりに兄は間に合った。迎えに行っていた父も、通夜はほぼ参加できなかった。挨拶をしながら、兄の袖の釦を止めてやった。
通夜振る舞いが終わると、交替で風呂に入った。疲れた母達は寝た。私は人の多い場所で眠るのに馴れていない。もとより寝付きは悪い方だった。だからなのか、全くと言って良いほど、寝付けなかった。
兄は飛行機疲れか、すぐに寝た。父は花の前に布団を敷いて、そこに寝ていた。私は父の隣に座布団を敷き、そこへ座った。
母の、双子の姉の、夫が起きていたので酒を飲みながらぽつりぽつりと話をした。学生の頃父と親しかったらしく、父の話をしてくれた。
翌日は母の双子の姉から付き合ってくれてありがとうと、なんだかお菓子とかおかずとかを貰ったけれど、これは憶えていない。
ほんの少ししか眠っていないけれど、驚く程眠たくはなかった。

次の日は、昨日と同じようなものだった。化粧をし、着替え、葬儀は始まった。
花を入れる時、母と兄は泣いていた。
兄は驚く程堂々と泣いた。
彼はこういった時に、泣ける人だった。
私は、私より悲しい人がいるのに泣いてはいけないと思った。けれどただ、涙が出なかっただけのようにも思える。

火葬場では、外でふらふらしたりお菓子を食べたり、兎に角燃えるのを待った。爽やかな秋晴れの日だった。紅葉は美しく、心地よい風が流れていたのを覚えている。
祖父は頑丈な人で、骨はほとんど綺麗に残った。真っ白な骨を拾い、骨壺へ収めた。
あんなに堅強な祖父がこんな壺に収まってしまうのかと思うと、なんだか奇妙な気持ちになった。みんな孫である私たちに一緒に燃やした小銭を渡してくれた、そうして、骨を持ち上げるのもやらせてくれた。泣いている母は、手元が覚束ないようだった。
長男と、その長男を見てみんなが似ていると囃し立てているのを憶えている。
背格好が、確かににていた。色づく葉の中で二人が何かを話していたのを見ていた気がする。誰かの犬がそこへ繋がれ、みんなで愛でていたことも。
その火葬場へ来るのは大凡三度目で、何度来ても馴れないことも。

無事に葬儀を終え、母は家族でご飯が食べたいと言ったので皆で帰ることになった。
車で一時間半ほど走り、私たちの家まで帰った。
兄はそれを聞いていたようで別の空港で帰路の飛行機をとっていた。私はバスのチケットを買った。
何を食べたのかは、憶えていない。ただ、通夜振る舞いやお土産で貰ったお菓子をたくさん持たせてくれたことを憶えている。

暫く身を寄せていることも考えたが、そうはいかない。授業も、バイトもある。母は突然休んだバイト先に、お礼のお菓子を持たせてくれた。
兄は一足先に飛行機で東京へ帰った。この間会った時は太ってスーツが着られないと笑っていた。男の人はスーツで楽だなと思った。帰りのバスが出発した。

私は様々な事を思い出しながら、ぼろぼろと涙が零れた。バスの中で、一人静かに泣いた。
兄のように泣けるのも羨ましいが、父のように威厳を持って立っていられるのも羨ましいと思った。私は、それほど可愛い孫ではなかったかもしれないがそれでも祖父のことが嫌いではなかった。
クリープ塗れのコーヒーを入れてくれたことを、今でも憶えている。ゲームセンターで一緒に歩いたことも、ゲームが一等下手で逃げてきた私を膝に入れてくれたことも。
私は祖父のことを、憶えている。
親戚全員と別れたあと、私は一人暮らしのアパートに帰るバスの中で一人静かに涙を零した。
親戚の葬儀に出席するのは三度目だったが、印象に残ったのはこの葬儀が初めてだった。あの秋の日を忘れたくない。きっと私は、ふとした折りに思いだす。いや、ずっと憶えているのだろう。

2020/02/20
加筆修正致しました。

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