古い写真を訪ね歩く 5 〜小澤正博さん・マツエさんご夫妻を訪問〜②
佐久穂町の国道141号を小海町方面に進む途中、『畑』の信号を右折して山手に上っていき、広域農道をすぎると見えてくる佐口集落。
佐口の見晴らしの良い場所にお住まいの小澤正博さん、マツエさんご夫妻を訪問した。
牛とも暮らした昭和の頃
正博さんとマツエさんは昭和29年結婚当時、佐口より八郡方面へ登った「石堂」にお住まいだった。
「嫁にきた石堂は不便なところでな、水が流れていないの。下に川が流れてても、うちのそばにはなくて遠くにあった。石堂の近くの家は水が湧いている所からすぐだったけど。うちは、お風呂を立つにも、下から担いで運んでお風呂を立てたよ。でもこの人(夫の正博さん)が井戸を掘ってくれて、そのおかげでその後はよかったけど。今は、嘘のようにひねれば水が出るけどね。」と、マツエさんは話す。
古い写真の中に、馬だけでなく牛の親子の写真もあった。
「これは、石堂にいた時の赤牛だね。」とマツエさん。「私が20代くらいの頃、昔は仔牛が生まれると、人間の3ヶ月分の給料、牝牛なら4万くらいで売れたよ。」昭和20年代になってくると、馬の次にどこでも牛を飼っていたと教えてくれた。
この写真は、正博さんがまだ20歳前後の時に飼っていた牛が、仔牛を産んだ時の物なので、およそ昭和25年位の写真となる。当時は馬喰(馬の売買・仲介をする人)が、仔牛の引き取り先の世話もしていたんじゃないだろうかと話す。正博さんの叔父も、その昔は馬喰をやっていたことがあるそうだ。
大正の大火に活躍する男衆
古い写真を訪ね歩いていると、よく出会うのが集合写真。今回も、佐口集落の古い消防団の集合写真があった。法被には“畑八消防組 消防手”と書かれている。写真の裏には大正4年9月15日と記載されている。
最前列で上着を脱いで座っている一番右の男性が正博さんの父、正沢さん。明治27年生まれで当時21歳の時の写真だ。
大正当時はこの辺りでは珍しかった自転車や、消防の警鐘なのか、手で鳴らす鐘のようなものを持つ人もいる。
「この消防団は、*1穴原が燃えた時分に消火にいった人たちの写真だぞ。おらっちの母ちゃんは穴原から来たからさ。親父が消防団で(消火に)行って、"お前(母)の所の近所には馬が焼けてたぞ。"なんつって話したってよ。」と両親の当時の会話を思い出す正博さん。
正博さんの母タカさんは、穴原の出身。この写真の頃や穴原大火の頃には、まだ両親は結婚していなかったそうだ。
「穴原の大火事っていやぁ、この辺では大変なことだった。その頃、親父たちの佐口の消防団が行って、これは活躍した人たちだよなぁ。」
消防車も当然なく道具があっても全て手動だったと思われる当時、千曲川のこっち(西)の山手から、向こう岸(東)の山手まで出動し火消しを行った男衆が、とてもたくましく思えるエピソードだった。
*1大正10年4月5日 高岩、穴原大火 と呼ばれる大火事が発生した。
文:鈴木
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